切っ掛けなんて、みんな些細なもんやろ。

気になり出したら止まらんくて、その気になり出した理由とかも曖昧で、始まりとか覚えとる奴居んのかな。視界に入る回数がいつの間にか増えてんな思うたら無自覚に目で追うとる。心の奥深くに侵食してくるように、何気ない風景に色の付いた染みがぽたぽたと落とされるように、いつの間にか、

─── いつの間にか、芽が出とった。

芽吹くんが恋なら花開く瞬間が愛なんか。




「(……またや)」

視界に入り込んでくる女のさらに視線の先に嫉妬さえ覚えた。熱を孕む視線にそいつは気づいとらん。友人のラインを越えぬように笑って隠してしまう女はどこまでも器用だった。上手に隠された女の熱を垣間見た瞬間の、言い様のない怒号を女は知らない。


─── 贅沢者め。


どうでもええことで笑って、馬鹿みたいにふざけて。傍に居れるだけでええやろ。友達なんて、要らんけど羨ましいポジションに居れるだけでええやろ。やのに、なんでそんな想われてんの?想われてることも知らずに笑いよって。腹立つねん。


─── 愚か者め。





「まぁーた見てるんですかねぇ」

外から運動部の部活に勤しむ叫び声が聞こえる、夕暮れの教室で二つの影が並ぶ。オレンジとか赤とかまだ暖かな色が世界を占領する。暗くなるのも時間の問題か。「みょうじ」と名前を呼んだら女はゆっくりとした動作で俺を視界に納めた。かと思えば次には弾かれる。俺は話し相手にもなれんのか。みょうじはそれから一切こちらを見ようともせず、しかし無視を決め込もうとしているようではなく「水上くんこそ」と返ってきた。その事だけにほんの少し息を吐く。

「俺は今から帰るんや。寄ったらみょうじが居ったから」
「じゃあ帰れば」
「みょうじは?帰らんの?」
「私もあと少ししたら帰るよ」
「あっちゅう間に暗くなんで。送ってくわ」

聞く人によっては自然な流れのようで、けれど彼女にとっては一歩踏み込んでみた言葉に、静かな溜め息が空気を震わせることなく溢れた。これだけで察しのええみょうじは気づくやろう。これだけじゃない。今までの俺の行動をこいつは気に掛けていないようでしっかりと思考に隅にでも記憶している。俺は知っとんで。知っとるから、俺と関わらんようにしとったんやろ。

交わらない視線も、話しかけようとするタイミングも、友達同士の会話さえも。器用なこいつは上手いこと躱して隠してまう。変な期待を抱かせんための優しさのようで、その実ボーダーライン。こっから先には来たらあかんいう警告。

それでも俺は、



「頑張ってるんだ」



これから先どうしようかと、思考の渦に落とされたたった一つの言葉。その意味をゆっくりと巡察する。あれやこれやと考えるよりその言葉の真意を探る方が重要やった。

「それは、誰が」
「水上くんが。私が。彼女が。」

気づいたらみょうじはこちらをじっと見ていた。オレンジ色に色づいたみょうじは哀しそうに瞳を揺らしていた。場違いにも綺麗やと、そう見惚れた。伏し目がちに窓ガラスの向こう側へと戻された視線の先も、そっと触れた指先も冷たいガラス越しに恐らく、あいつをなぞってる。そんな行為にさえ腹を立てる俺は救いようのないほど心の狭い男なんやろう。

「マコちゃん、大会が近いの」
「………ほぅ」
「邪魔になるようなことはしたくないの」
「それでも言わんやろ」

揺れる、揺れる。綺麗な目や。好きだって全部を言うとる、羨ましい目や。その恋い焦がれる目で俺んことも視てくれへんかな、なんて柄にもないこと思おとる。恋は人を馬鹿にするんやな。

なぁ、みょうじ。胸が痛いんはなんでやろうな。

「なんであいつなん?」

眩暈がした。息がしずらかった。毎日毎日。この気持ちの名前を探しだしてからずっと、大声を上げて自分を見ろと叫びだしたくなった。分かりきった理由を問うほど愚かな行為はない。俺かて、みょうじかて分かっとる。

揺れる、揺れる。

それはみょうじの瞳か。それとも俺の心か。

「『好き』に理由がある?意味はいる?それは水上くんが一番分かってるんじゃない?」

ハハ、乾いた笑いが溢れた。



ごもっともや。



「あいつは拒絶すんで」
「それは、言ってみないと分からないじゃない…」
「分かっとる癖に」

分かっとるからお前かて言わんのやろ。誰もが勝ち目のない試合には挑まん。傷つくんが怖いから。今の関係を壊すんが怖いから。足踏みして時間稼いで、仮面張り付けて隣を独占して笑っとる。そん方がええ。普通やったらそう思うやろ。やけど、塗り固められた嘘はいつか剥がれ堕ちるもんや。私は貴方の友達以上を望まないと言い張ったって、欲は止めどなく膨れ上がる。現に俺がそうなんやから。手に追えんわ。

「俺が女やったらよかったんに」

思わず溢れた小さな本音は、みょうじの心の何処かを刺激したようだった。見たこともない色を瞳に滲ませ、俺を睨んでいるかのようにぐにゃりと歪む。ふざけるなと。そう言っているようだった。

「仮にもし、水上くんが女でも好きになるとは限らないよ。私はマコちゃんが女だから好きになったんじゃないんだから」
「……すまん」
「うん」

いつの間にか外からの声は聞こえんようになっとった。オレンジ色から茜色に。茜色から紺色に。暖かさなどなりを潜め静寂だけが支配する。

「みょうじー。やっぱ送るわ」

かたり、と乗っかっていた重りがなくなり音を立てる。手には二人分の鞄。みょうじが慌てたように乗っかっていた椅子からどいた。がたがたと大きく音をたて歪に着地するそれを尻目に慌てる彼女の姿を目蓋に押し込めた。

「待って、返してよ、」
「はよ来な先生来んで」
「ちょっと水上くん!」

鞄を人質に取られればなす術などない。大人しく、とは程遠いが文句を言いつつも俺の後ろを追いかけてくる。さっきよりかは、ええ表情しとる。

「なぁ、付き合ってみん?」
「え、誰と誰が」
「俺とみょうじが」
「……正気?」
「ひっどいわぁー」

完全に沈みきった暗闇の中、伸びる影もなく二人肩を並べるなんて珍しい光景を写すものなどない。夢か俺の妄想か。その手を取ってぬくもりでも確認してみればいいものの、その手を取る勇気は今の俺にはない。

「なぁ、みょうじー」
「ん?」
「お互い難儀やなぁ」

咲いたとしても、きっと枯れて終わる。


23.3.21