絵は好き。真っ白なキャンパスに筆が走る感触、独特な油の匂い。足せば足すだけその表情を変えていく過程がとても好きだ。だから私の絵はなかなか終わりがみえない。色の上に別の色が足され並べられ、変わっていく表情にニヤついてしまう。止まることのない想像は急かすように手も止めてくれなくなるから。いつも先生や友人たちの待ったがかかる。気の済むまでなんて、やったことがない。だから皆の中の私の絵は『完成』されていても私の中では絵は『未完成』のままだった。

放課後。全ての授業が終わる夕暮れ時のその時間。一人ではないけれど一人で没頭できるその瞬間は別世界に一人だけ居るみたいだった。周りの人たちが思い思いに筆をとり色を走らせる僅かに擦れる音さえ静寂と一体となる。程好く集中できる時間。私の、好きな時間。

「あ」

その日は風景画を描いていた。溢れているかも知れないけれど、大きな桜の木が一本、どんと構えているようなそれだけの絵だった。パレットには赤と白を混ぜた色が何種類にも分けて感覚を置いて出されている。その一番端の一番白を多く混ぜ薄めた色がもうなかった。チラリと足元に無造作に散らばっているチューブを見る。ああやはり、白のチューブがもう無いと分かるぐらい全体的に凹んでいる。試しにぐっと押してみるけど何も出てこない。仕方ない。他の人に借りようにも白は結構使う色だ。あるかも分からない物を探すより資材置場から持ってくる方が早い。

そう結論付けて少しの間席を立っただけだったのだが。戻ってきたらなんか居た。同じクラスの眼鏡の男子。見慣れた黄緑の髪はゆったりとした性格にしては奇抜な色に見えるのは私だけだろうか。

「あれ、中峰くん?」

私の声に反応してか、ゆっくりとした動作で覗き込んでいた描きかけの桜から私へと視線を移す。垂れていた頭を上げれば彼の背が私よりうんと高いことを教えてくれた。こうして並んで話すのは片手で足りるくらいだ。

「ああ、みょうじさん、どうも」
「いや、うん。なんで中峰くんが此処に?」

最もな疑問。中峰くんは確か帰宅部だった筈で、どうして放課後の美術室にいるのか。誰も止めなかったのかと周りをぐるりと見てみるけど皆集中力の鬼だった。私もきっと絵と向き合っていたら彼が入り込んで来たことに気づかなかった筈だ。渇いた笑いしか出てこない。

「委員会の帰りです。通りかかったらこの絵が目に入りまして。みょうじさんが描いてたんですね。」

ふわふわとした間の抜けた声だと思った。目に入ったからって普通に中にまで入ってくるだろうか。誰も居ないならまだしも今は部活中で、集中しているとはいえ5、6人は居るのに。気まずいとかはないのかこの男は。そしてこんな会話を気にも止めない部員の諸君よ。

「中峰くん」
「綺麗ですねぇ、本物みたいです」
「中峰くん」
「この絵はいつ頃完成するのでしょうか」
「中峰!外出るぞ!」

こいつ人の話聞かねぇ。




それから数日。同じクラスなだけの眼鏡の男子はたまに顔を出すようになった。最初の頃は中峰くんに気づいた同級生が「あれ、中峰。なんで居るの?」と問いかけていたのにそれが数回重なれば「やっほー中峰ぇー」なんてフレンドリーに挨拶をする始末。別にいいけど。中峰くんは何が楽しくて美術室に出入りしてるんだろう。

「また来たの?」

後ろ姿でも柔らかな雰囲気が伝わってくる。ふわふわとして気の抜けるような空気。振り返った彼はやっぱり控えめな笑みを浮かべていた。

「まだ完成してないよ」
「そうなんですね」
「完成するかも分かんないけど」
「完成しないんですか?」
「わかんない」

皆はそれ以上塗らない方がいいって止める。それ以上色を重ねると台無しになるからって。皆にとってはそれが『完成』で私にとっては未だ物足りない『未完成』。だから、私は私の絵の『完成』を一度だって見たことがない。筆をとる。乾いた景色に再び色が乗る。表情を変えていく一本の桜の木を、中峰くんは黙って見つめ続けていた。

ペタリ。海のような空に桃色の花弁が舞っている。そろそろ止められるかもしれないな。ふと桃色に染まった筆が止まって、そう思った。筆の枝の感触は冷たく、隣の男の表情が上手く思い浮かばなかった。




「もう終わり」

干されている桜の絵の前に居座る光景も見慣れた。絵だけが並べられ誰もいない美術室に二人だけ。部員でもないその男子はなんだか寂しそうに私へ視線をよこす。寂しそうだけれど、なんだか不思議そうな顔をしていた。控えめな笑み以外に初めて見た、彼の表情だった。

「完成されたのですか?」
「完成はしてないよ」
「え、それじゃあ」

でも終わりなの。強く、張られた声は震えていなかっただろうか。

「もうこれ以上塗ったら台無しなんだって」

この絵も未完成のまま『完成』した。期日もあったし誰が見ても『完成』された絵ならば仕方がない。自分にそう言い聞かせるようにそう心の内で唱える。中峰くんは少しの間黙考するように視線をさ迷わせ小さく唸っているようだった。

「みょうじさんの絵は、綺麗ですね」

そうして問われたわけでもないのに何かを確認されるような言い様。中峰くんが言わんとしていることが気になるなんて、私と彼はただのクラスが同じなだけで友人と言う訳じゃない。なのに。

「……なんか含みを感じるんですけど」
「いや、ええと、」

この絵はいつ頃完成するのでしょうか。ふと最初の頃に聞かれたことを思い出す。そう聞かれてからずっと、私が筆を執るところを見続けてきた中峰くん。

彼の凪いだ雰囲気が苦手だった。言いたいことがあるなら、言えばいいじゃない。

「この絵は、もう完成しないのですか?」
「………中峰くんには、どう見えるの」

私の中では『完成』じゃないけれど皆の中では『完成』されている、私の絵。そもそも『完成』ってなんなんだろう。定義はどこにある?不満がある訳じゃないけれど満足もしていない。満足するまで描いたことないもの。そんなもの、分からない。

「僕には、寂しそうに見えます」

ストン、と落とされたのは初めて貰った言葉だった。中峰くんらしい。まるで我が儘を言っている子供を宥めるような、閉ざした心に届けるような落ち着いた声音に吸い込まれて、視線が持ち上がった。中峰くんの瞳をちゃんと見るのは初めてかもしれない。君の目は優しい色をしているんだね。

「絵は、続けるんですか」
「………うん」
「みょうじさん」
「なに?」
「いつか僕に、見せてくれますか」

何がとは言わない。言わなくていい。続けるよ、中峰くん。卒業したって描き続ける。だって私、まだ全然満足していない。初めての感情が渦巻いて溢れ出てきそう。グッと堪えた何かはなんだか恥ずかしすぎてまだ表に出せそうにない。

「なか、みねくん」
「なんですか?」
「その時は見せに行っても、いい?」

何年先になるかも分からない約束に、君は気づいてるのかな。ねぇ、中峰くん。

「はい、待ってます」

見つけてくれてありがとう。
私、涙が出そうだよ。


24.1.2