ナマエー。ナマエ〜?

女の人の声が聞こえる。自身の名前を何度も呼ぶ、耳に馴染んだ高くも心地のよい声音に日向ぼっこのぽかぽかとした温かさと相まって、うつらうつらと瞼が落ちていく。

「おうバネッサ、さっきから誰呼んでんだよ」
「あらマグナ。誰って、あああ!こんなところに!もう、聞こえてたんでしょ?ナマエ」

見つかってしまった。ぴくりと片耳が動くも顔は上げられず、腹に回る温もりを感じながらゆったりと持ち上がられる浮遊感に身を任せた。

「んだよ、猫のことか」
「団長も認める黒の暴牛の団員猫、ナマエよ」
「あ"あ!?ウソだろ!?」

バネッサのはっきりとした言葉に男、今年入ってきたばかりの新人くんマグナは嘘つけと言い淀みながら不躾にもじろじろと見てくる。それはもう耳のてっぺんから尻尾の先までじろじろと。残念なことにこの場に団長本人が不在なため事の真相は明らかにされないままだが、何を納得したのか嘘だよなと呟きながらもそれ以上の言葉が見つからないのか何も問いただされることはなく「こいつナマエっていうのか」と謎の終着点を迎えた。

いやいやいやもっと他に言うことあるでしょ。あなたはそれでいいの。ちら、と見上げたら目と目があった。じっくりと見つめ合うわけではないのに目を逸らすこともなく、マグナは緩みそうな頬と一緒に少しそわそわとした様子で両の手を私の目前まで持ってきて「さ、触ってもいいか」などと宣っている。えーー。あなたその強面の顔面鏡で見てきなさいよ。

「どうする?」

勘弁してください。私、れっきとした女の子なんで。

ぷいっと頭を逸らせば理解してくれたバネッサの「ダメみたいね」の一言にマグナが項垂れていた。しかし知ったことではない。嫌なものは嫌なのである。




それから数日。

「お、ナマエ」

来たなトサキング!声よりも先に聞こえてきていた足音にぴくぴくと反応する獣耳。初のご対面を果たしてから、ことあるごとにマグナに見つかる。今まで遭遇率の多かったバネッサより多いかもしれない。これは確実に探しにきてるな。そんなにもふりたかったの?強面のお兄さんが実は動物には優しいんだよってやつ??それでも一度目の拒否が効いているのか無理矢理触ってこないのは密かに好評価である。

目線を合わせるかのように中腰になったマグナがじっと見つめる私の目の前にこれならどうだとあるものを置いた。最近会うたびに彼はこうやって献上品を持ってくる。餌で手懐けてもふろうという魂胆がだだもれだ。しかし私はそんな安いにゃんこではない、がなにを持ってきてのか気になるので物だけでも見てみよう。さてはて今回はなんだと覗き込めば真ん丸い銀色の蓋が。ツナ缶だ。食うか、と問いかけながら私の反応を見つめるマグナだが気づいて欲しい。開けて貰わなければ食べられない。この肉球では開けられない。マグナと私とで無意味な見つめ合いが暫く続いた。しかし、それもまた長くは続かなかった。陽気な第三者の声が降ってきたからである。そう、文字通り空から、稲妻が落ちてきた。とんでもない爆風が終了のお知らせを運んできた。

「あれ〜マグナ?こんなとこで何やってんのー?」

土埃の中から幼い男の子の声が聞こえてきた。会ったことはないけれど、何度か聞いたことのある声だ。恐らくもう一人の新人くんだろう。

「ぅおいラック!危ねーだろーが!!」

ほらね。

マグナは私を土埃から庇うように前に身を投げ出し盾となってくれた。こいつ、見かけによらず紳士だわ。一方で楽しげな笑い声を上げているラックはこんな状況を作り上げた張本人だというのになんの悪びれもなくマグナに絡みに行っているし、人って見かけによらなすぎる。

「なになに?マグナってば最近姿消すと思ってたらこんな森の近くで座り込んでなにやってたの?」

ひょっこり、可愛らしくも不自然なほど絶えない笑みを張り付ける男の子が私を見つけた。ラック本人を知らなければその幼さが抜けきれない愛らしい顔の男の子に「さっきの奇行をかました人には見えないな」が正直な感想だけどあれを見てるからね。空から落ちてきた後も変に笑みを張り付けているとこを目にしてしまえば違和感は拭えなくてもどこかで納得はしてしまう。こいつはやばい。

「あれ〜〜こんなところに猫がいる」
「おいおい!怖がるからあっち行けって!」
「どっちかって言うとマグナの方が怖がられそうだけどね」
(普通はそうだろうね)
「へん!もう俺とこいつは知らない仲じゃないんだぜ!」
(猫相手になに威張ってんだこいつ)

言葉を話せないとは難儀なことだ。

「ねぇねぇ、この子の名前は?」
「んぁ!?誰が教えるか!」
「なんで?なんでマグナが決めるの」

更に二人の口論が激化してきた。口だけじゃなく拳と魔法の往来にこの場を放れようとタイミングを図る。ただラックがマグナを口八丁で怒らせて遊んでいるだけなのだがこのままここに居たら私にまで被害が出そう、というか留まる理由もないのでお暇しようと思う。おっとその前にツナ缶ツナ缶。別に要らないとは言っていない。あとでチャーミーかバネッサのところに行けば開けてくれるだろうから貰っとけるものは貰っとくしなんならチャーミーなら何か料理してくれるかも、とあったあった。よかった、缶だったから無事だったらしい。缶に付着した砂利とかが口の中に入って不快だけど持っていくためにぱくりと口に加えて走り去る。こういうとき手が使えないのは不便よね。二人とも気づかないままそっとダッシュ。土埃舞う茶色の世界から離脱できた。




昼間よりも幾分か高くなった視界でお月さまを眺めていた。昼間にマグナから貰ったツナ缶をチャーミーの元へ持っていけばやっぱりそこはチャーミー。美味しいツナとレタスのツナマヨサンドとその日取れた新鮮な茸だと茸の中にツナを押し込めて炙った二つをくれた。

いつもの夜。いつもの定位置。傍らには夜食。アジトのてっぺんには自分以外いない。はずだった。

「ねぇ、なにしてんの?」

ふと風に運ばれるような掛け声は昼間に聞いた。いつもとは違う訪問者の知った声に頭の上にある耳がぴくりと反応する。にこにこと、そこには道化のような笑みの少年が。やはりあの奇行を目の当たりにしなければ優しげで、愛らしい男の子だ。ねぇねぇとさらに続く催促が真っ白になった頭に景色を浮かべさせる。ぼんやり、暗がりの中に今度はキラキラお星さまが現れたようで、周りが深淵に沈んだ闇のようだったからだろう。そこだけに浮かぶ色が眩しすぎて目を細める。

「ねぇ、君は誰?ここがどこだか知ってるの?」

何も話さない私に痺れを切らしたのか、もともと我慢強くないのか質問は続けられる。どう言ったものかと思案するも上手い言葉が見つからない。私も黒の暴牛だよって言っても信じえて貰えないだろうしなぁ。

「あ!もしかして」

ん??

「侵入者!!?」

あ、だよね。そうなるよね。違うし君と殺り合う気はないから「君ってどれぐらい強いの!?」って興奮気味に聞いてくるの止めて。

「侵入者じゃないから」
「あ、やっと喋った」

このままでは雷が飛んできそうなので否定だけはしておく。けれど興味を失ったわけではないようでじろじろと見つめてくるのは変わらず。そんな視線に耐えきれず、立ってるのもなんだし座ったら?と勧めれば暫し考えたあとに隣に腰かけてきた。警戒されていないのか強くなさそうだからいざという時どうにかできそうだからそうしたのかは、まぁどっちでもいい。

これ食べてもいい?お好きにどうぞ。いただきまーす。なんて普通すぎる会話をマグナよりラックと先にするとは流石に思わなかった。この姿で会わなければ無理なものは無理なのだが猫の姿でも今日会ったばかりのラックとその日の夜にこっちでご対面するだなんてどんな確率だ。

「ここ、魔法騎士団のアジトだよ。黒の暴牛っていう荒くれ者の」
「知ってる」
「え?」
「それに皆優しいよ」
「…………どっかで会ったこと、ある?」

知らないのも無理はない。こちらが一方的に知っているだけで君にとっては初対面なのだから。

「知ってる。君が思っているよりもずっと」

空色の瞳の中で、桃色の獣の耳が垂れた。

「……今日、君と同じ髪の色の猫と会ったよ」

何を考えているんだろう。海のような瞳がじっとこちらを見つめる。ここに来てから、何かを探られているようでならない。侵入者じゃないとは否定はしたけど普通それだけで疑いが晴れるわけじゃないし、だからといって拘束されそうな気配もないところを見ると疑われているわけでもない。

もしかして最初から疑いなんてなかった?

「ねぇ、名前はなんていうの?」

笑みが消えているところを初めて見た。

「ナマエだよ」

誰かに自身の名を口にするのなんて、いつぶりだろうか。ラックは名乗らずに、そっかとだけ納得したように言う。




流れ星が二人の間を横切った気がした。


20.7.24