ちゃぷん。

跳び跳ねた小さな球体がゆっくりと円を描いて私のカッターシャツへと着地した。じわじわと広がっていく数個の茶色い染みをただ見つめるだけ。そうして目の前でわたわたと慌ただしい手も視界の端に見える。不注意だ。私も、相手も。不慮の事故というやつでどちらにも非がありどちらも被害者、だと思う。

「あの、」

相手の慌てぶりが可笑しくて、何か言わなくてはと声を掛けた。大丈夫です、とそこでやっと視線がかち合う。細い指先から視界が上へと向いて、高い背は丸めているのかやけに近く茶色い毛が頬を掠めた。髪と同じ目の色が、私を写す。あ、この人は、

それは一方的に知っている人だった。隣のクラスで、幼馴染みの友人。そうして学生でありながら俳優もやっている有名人ではなかっただろうか。驚きで思考が一時停止している間に彼が懐から一枚の青を取り出して、事もあろうに私の広がり続けるその場所にそっと押し当てた。

「え!?ちょ、いいよ!」
「アウアウ!」

汚れる!と止めようと試みるも何を言っているのか解らず更に焦る始末となってしまった。そりゃそうだ。私たちほぼ初対面の相手なんだから私が彼の言葉を理解してあげられる訳がなかった。無口だとは知っていたがまさか人語が話せないから?だったなんて。

「ちょ、……ぁぁぁー…」

綺麗な青が濁った色に侵食されていくのを無力にも見つめることしか出来ないなんて。ここはもう潔くお礼を述べるべきなのだろう。染みを作る原因となってしまったココアの缶は既にぬるく、缶を握っていない方の手は慌てる彼を宥めようと出されていたが行き場を失くし宙をさ迷っていた。

「………アウ、」

ごんなさい。何を言っているのか解らないんです。なんとなく、彼の目が大丈夫?と言っているのは解るのだが、私はそれよりもその青だったハンカチに意識が削がれていた。だってそれ、絶対高いやつじゃん。それをそんな、私なんかのために汚させて。弁償できるだろうか。彼の誠意ある好意に逆に青ざめてしまうなんて、なんて現金なやつなのだろう私って。

そこに、私にとっても彼にとっても馴染みのある声が割って入ってきてこの場の空気を変えてくれた。彼の名を叫びながら近づいてきた私の幼馴染みは私にも気づいたのか私の名も呼び、私と彼を交互に見た。その間にも彼の目が大丈夫?と伺っている。正直大丈夫ではない。

「んだよニコフ〜。自販機行ったきり帰りが遅いと思ったらナンパか?」
「あんたの目にはこれがナンパに見えるわけね…」
「はは、わりぃわりぃ。冗談だって」

で、なにしてんだよ。と見たままのものを一から説明しなければいけないことが億劫で以下省略とだけ答えておく。まぁ分かるけどと返ってきた言葉にじゃあ聞くなと切れそうになったけどそこは押さえた。兎に角この心配性な彼をどうにかしてほしい。

「ニコフ、もうそれじゃ取れねぇって。ナマエもジャージに着替えた方がいいぜ?」
「そうする。ニコフ?君、ほらアホのキッドもこう言ってるんだし、私は大丈夫だからさ」
「アホは余計だよ」
「アウ…」

しゅん、と猫耳とは違う茶色い耳が項垂れた。か、

「(かわいい……)」

つい口から漏れたんじゃないかと思ったが大丈夫だった。ちゃんと心の内に留められた私の感嘆は長年の幼馴染みの呆れた視線だけが目撃し、小さな不慮の事故はそこでやっと幕を閉じた。じゃあねと別れた茶色と黄色に手を振り、一人残された私の手元には完全に冷えきったココアと彼の誠意から使ってくれと押しきられ私の罪悪感の塊でもある、濁った青色のハンカチだけが残されていた。




■ ■ ■ ■ ■



困った。

うーんと顎に手を添え唸りながら吟味する私の目の前には色とりどりの綺麗に並べられたハンカチの行列。そうして思い浮かべるは青をベースとしたシンプルなもの。

「決まった?」
「まだ」

放課後。学校の帰りに立ち寄ったのは可愛らしい雑貨屋さんで、駅に近いその雑貨屋さんの小さなスペースに設けられたその場所に私は従妹と共にやって来ていた。

いつも一緒に帰っている従妹のドラミの元に向かった私が一番最初にやったのは昼間に不可抗力で手渡されたあの染みがついてしまった青いハンカチを見せ、「これ、どうしたらいいと思う?」と聞くことであった。なんの説明もしないままそんな風に聞いてしまったものだから当然ドラミからは訳が分からないと「汚したの?洗えば?」と至極全うな返事と共に染みの落とし方まで事細かに説明されてしまった。でもこれは恐らくもう落ちないと思う。やってはみるが落ちないと思う。そこでやっと事情を説明し、ならば保険にお礼を兼ねて代わりのものを用意するのはどうかと案が出た。え、重すぎない?それはそれで友人でもなければまして知人ですらないのにそれは重すぎない?社会人なら当然だと言うが私たちまだ社会人じゃなくて学生、え、四の五の言わず早く来いってちょ、待ってドラミ。

「これは気持ちの問題だわ」

そう言いながらなんだか楽しそうですねドラミさんよ。

うきうきとこれなんてどうかしら?と薦められるのは楽しみながらもなんだかんだと真剣に考えてくれているのか無難にシンプルなあの青に近いものだった。ミーハー心に火がついて、余計なごり押しでもされるのかと内心不安だったがそんな心配ドラミに限っていらなかったようだ。少し安心したのは秘密である。

手に取った青の手触りは好きな部類だった。新品のするりと滑る感触。当然だが似たような色はあれど柄なども含めて全く同じというものはなく、それがまた悩みを加速させる。全く同じものを探しに行くのもどうかと思うし、だからといって適当なものや男性向けとは思えない可愛らしいものを贈るのも違う気がする。可愛らしい店内は明らかに女子向けしそうな雑貨で溢れていて、ハンカチがあるこのコーナーも女性向けの小洒落たものばかり。やはり返すなら紳士専門店でも行けばいいのか。そんなわざわざ行ってきました感が出てそうで行くこと事態渋られる。相手に引かれない?そんな堂々巡りをあれから何個も手に取りながらもう一時間近く頭を抱えている。最初は一緒に吟味していたドラミも途中から何処かに行ってしまった。

悩んで、悩んで、さ迷う視線が小さな夜を見つけた。夜のような深い深い、よく見れば青色にも見えなくはないどちらかと言えば藍色だろうか。

手に取った処で、何処に行っていたのかドラミが明らかに探したいたものとは系統の違う、どちらかと言うと女の子が好きそうな可愛らしいそれぞれ桃色と水色の刺繍入りハンカチを手に戻ってきた。

「………ドラミ?それ」
「見てたらなんだか欲しくなっちゃって。はい、ナマエの分もあるわよ」
「わーいありがと〜じゃなくて」
「ほら貰えるのはなんでも嬉しいでしょ?何がそんなにイヤなの?」
「何がって、これとそれとは話が別じゃない?嫌とかじゃないけど…なんか恥ずかしいって言うか」
「別に?ただのお礼で、お詫びじゃない」

何故だろう。一つしか違わないのに従妹の方が大人だ。

ナマエが変に意識しすぎなのよ、と指摘されてこの気恥ずかしさは確かに意識してしまっている証拠なのだろう。けれど意識しているといっても気になるあの人に〜なんてそんな甘酸っぱいものとかじゃないことだけは明白で。

「それに見ず知らずではないじゃない」
「友達の友達は見ず知らずでしょ」
「そうかしら?」
「そうだよ」

話したこともない相手を見ず知らずと言わずなんと言うんだ。見掛けたことがあるってだけで一方的に知っている間柄は知人ですらないぞ。

「少なくとも今日知り合ったわ」

心の中でも読まれているようなタイミングでドラミがそう誇らしげに告げる。ニッコニコに何かを期待しているその笑みには申し訳ないがドラミの言う通りこれはお礼でありお詫びだ。そんな青春じみた展開は望めない。

深い夜は手の中に沈んだまま、私を試しているようだった。


21.1.21