目覚めに一杯、如何かな


どこからともなく怪物が現れた、あの日。全てを飲み込む真っ黒な闇の中から蟻の大群のようにわらわらと現れたあの日。全ての日常が壊された。轟く破壊音。甲高い悲鳴。逃げ惑う人々。地獄、とはきっとこのことをいうのだろう。そう思った。

ボーダーという組織に入ったのは、そんな地獄のような体験をしてすぐだった。

家族が殺されただとか、友人が拐われただとか、家が壊されただとか、そんなことはなかった。私は幸運にも何も失わなかった。それならば何故、と人は問う。何故戦う道を選んだのか、と。別に大した理由はない。失うことはなかったが怖い思いをしたのも確かで、ただ人よりトリオンが多かった。そんな小さな理由だったと思う。



☆ ☆ ☆



「わたし、じたい、つくろーと、おもふ」

目の前の女は眠たげに瞼を落とし頬を紅潮させながら、唐突にそんなことを宣言した。間抜けにも言葉は出ずビール缶片手に硬直する。言いたいことは色々とあったがまず言葉が音として出てこなかった。

自身の手の中で透明に揺れるそのグラスに入った液体を眺めながら、夢うつつにうとうとと小舟を漕ぎだすそいつは俺の変化に気づく様子は見られない。かと思えばふと伏せられていた目がガバッと勢いよく起き上がり此方を捉える。

動揺してかは知らない。一瞬、変に力がこもってしまい嫌に耳に響いてしまった缶の凹む音。しかしそれも本当に一瞬のことで、次に鼓膜を占領したのは女の噴き出す笑い声だった。失礼にも腹を抱えケラケラと笑い出すそいつ。そう、その女。名を牡丹道紅香といい、幼馴染みであり腐れ縁であり、切っても切れない縁のようなものを感じている。最終的に一つの言葉で俺と紅香の関係を言い表すならば『悪友』。それがしっくりくる。そんな関係。

「んだよ」
「まーぬけ、づらぁ」
「あ?」

ヒヒヒ、と治まる様子のない酔っ払いを一瞥し、飲みかけていたグラスを煽る。普段から笑いのツボは浅い方だったが酒が入っている今は普段の比じゃないらしい。何がそんなに可笑しいのか面白いのか分からないがとにかく机に突っ伏すほど笑い転げている。

「しっかし、お前が?たいちょーすんの?」
「なによ〜何か文句でもあるわけー〜」

紅潮した頬でぶらんぶらんと危ない揺らし方をしだす手のそれを、溢れんだろ馬鹿!と言いながら取り上げた。紅香は酒が入るといつもこうなる。いつも、と言うのには多少語弊が入るがいつも、毎回、呑む度にこうなる。呑む頻度はそう多い訳ではない。こいつが呑む時、それは祝い事があるときだ。




初めて俺と紅香が酒を口にしたのは高校入学の前日のことだった。いやお前ら未成年だろとかそういうツッコミはいい。イケナイコトに魅力を感じてしまう、そんな年頃だった上に勧めてきたのが今目の前で潰れる寸前の酔っぱらいの兄貴ならば断る理由も無い。世の中そんなもんだ。

高校入学おめでとう!と目の前に出された二つのお猪口に注がれた日本酒と腐れ縁の兄貴である牡丹道月(アカリ)さんを交互に見て、最終的に紅香と二人して顔を見合わせた。マジかこの人、と。言葉にすることは無い視線と視線での会話。駄目なことだとは分かってはいるが好奇心に忠実な俺の喉はごくりと音を鳴らす。一方で、それに反して紅香は鼻を摘み眉をハチの字に変え眉間に皺を作るとくぐもった声で臭いと言い放つ。その言葉にぴしりと効果音が付きそうなほど固まる兄、月さん。

は?

そんな声が聞こえた気がした。

「お前何言ってんの」
「え、だって臭いんだもん。何この匂い?鼻に残って気持ち悪いんだけど」
「おま、」
「ねぇ慶もお酒初めてでしょ。臭わないの?もしかして既に飲んだくれて慣れてるとかじゃないよね?」
「いやいやこんだけ離れてんのに酒の匂いとか解かんねぇから」
「はぁー、入学祝いに飲ませてやろうという兄のはからいをお前と言う奴は」
「その前に未成年に勧めてくんな」
「お前らもう高校生なんだろう?もう大人じゃねぇか。大人の階段登んじゃねぇか」
「おいバカ兄」

紅香はまだまだ餓鬼だなぁ、と月さんは言い放つとお猪口を一つ持ち、俺の目の前まで持ってきた。慶は飲むだろ?と、隣からの視線が痛いが正直飲んでみたいという欲の方が断然強く俺はそのお猪口を受け取った。

「忍田さんにバレても知らないから」

処刑宣告ともとれる発言は右から左にスルーし、喉に流し込んだ初めての酒は紅香が飲む前から言っていた通り苦く、これが大人の味なのかと感嘆したことはこれから先忘れることは無いのだろう。ついでに言ってしまえば処刑宣告ともとれる発言をした直後、顔を青くした月さんの手によって手付かずだったもう一つのお猪口を器用に片手で取り押さえた紅香の口にお前も共犯だと言いながら流し込む絵面も忘れないだろう。

流し込まれ、そのたった一杯で潰れた紅香を横に俺は月さんにもう一杯注いでもらい、改めて二人で乾杯したそんな日。紅香が酒に激しく弱いとわかったそんな日。




それから約二年の月日が流れた今日、この日。

酒が弱いあいつからの珍しすぎる誘い。あの日から片手で足りるぐらいの回数の誘いは必ず宣誓なるものがあったが、今回は前よりも驚く宣告だった。

『自隊』を作る。当たり前のように聞き流してしまいそうなその内容は、発言者によって耳を疑ってしまう程驚愕のものへと姿を変えた。何故なら、俺達が所属するボーダーという防衛機関にチーム制なるものができてから今の今まで、実力者からの誘いやこいつを慕え者からの志願があれど全て突っぱねていたのだ。それがなんだ。疑問しか浮かび上がらないのはなんでだ。

「突然過ぎて吃驚なんだけど」

紅香から取り上げた飲みかけのビールを机に置きながら隠し切れない動揺は何処にも置き去りに出来ずに声音から駄々漏れだ。しかし、究極的に酒に弱いこいつは完全に酔っ払っているので俺のそんな様子は諭されること無く、結果として見過ごされているらしいのでまぁいいか。

「ぅーん、そん、っなにへん?」
「変。つーか不思議。一体どんな心境の変化なわけ」

俺から取り上げられたせいで手持ち無沙汰になってしまった為か、虚ろな目で辺りを右往左往と視線を彷徨わせるとゴトンと盛大な音を出しながら再び机と挨拶しだした。呻き声から察するに相当痛かったようだ。本当に酒に弱いなお前。挨拶間近にビール缶とグラスを避けといて良かったと内心ホッとしながら空になった自分のグラスにビールを注ぎ、先を促せば未だ机とキスしながらだってさぁとまたくぐもった声が聞こえてくる。

「あんたもさぁー、いじゅみきゅんとったじゃーん」
「かなり前だけどな」
「バカもバカなりにたいちょーなんかしちゃってさぁー」
「バカは余計だろバァカ」
「そしたらしのださんにさぁ…」

忍田さん。

その名前が紅香から出た途端、グイッと傾けていたグラスが意図も簡単に止まる。忍田さん、忍田さん。こいつの口からその名前が出てこない日はない。だからどうってことは無いのだが、案の定出てきて、酒の手が止まってしまった。

「なんか言われたの」

思ったよりも低い声が出てしまった。あっけらかんと笑いジョークのように聞くつもりがここで素が出てきたしまった事は失態だ。誤魔化すように酒をグビグビ喉に流し込めば相変わらず苦くて、顔が赤くなる。紅香は特に気にした様子もなくいやね、と言葉を区切り酔った頭で必死に話を伝えようとしているようだ。

こいつとの付き合いも、もう両の手じゃ足りないぐらいになった。それだけ長く一緒につるんでる。

こいつは誰かの下、もっと言えば自分よりも格下の奴の指示なんて絶対に聞かない。女王様気質のような奴だ。自分が正しいと思えば年上の奴の言うことでも聞かないし嫌な態度なんて隠そうともしないから揉め事なんてしょっちゅうだ。単体での実力があるだけで恊調性がないもんだからこいつを欲しがる隊はあれど勧誘までいかないのが実情だ。こいつもこいつで今まで隊そのものに興味すら示さなかったからな。それがどうだ。いきなり「隊を立ち上げます」なんて言われたら驚くだろ。今までのはなんだったんだと責め立てたくもなるだろ。

しかし、ここで深読みなど果てしなく意味のない時間だとこいつとつるんできた俺の幼馴染みとしての長年の勘がものを言う。忘れてはいけない。こいつが如何に、単純明快で分かりやすい性格をしているのか。

「で、忍田さんに相談したら自隊作ればいいじゃん?となったと。」

うんうんと眠たげに、あるいは本当にコックリといっているであろう首ががっくんがっくん言っている。なんというか、ああ、長い溜息が出てきそうだ。主に呆れの。取り敢えず一言言わせてほしい。

「馬鹿なのお前?」

そんな幼馴染の遠回りな答えを宣告された、18のそんな夜の出来事だった。


21.1.24 加筆修正
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