「ごんべ殿! お手合わせ願う!」 朝霧を晴らすようなよく通る声と共に、すぱん、という障子戸が豪快に開け放たれる。明け方の冷気がすらりと布団まで届いて思わず身を縮こまらせた。 薄く目を開くと、辺りは薄暗い。まだ日も昇っていないのではないか。なんとか開いた目のまま音のした方を見やると太陽が、否、太陽よりも眩しく目を爛々と輝かせている"子犬"がいる。 その"子犬"は戸を開け放したものの、中には入らず入り口でおそらく俺が起き上がるのを待っている。先ほどはなんと言っていたか。"おて"がどうとか言っていた気がする。 「……豊久坊」 「ごんべ殿! 起きたか!」 寝起きの掠れた俺の声が完全にかき消されるような明朗な声が耳をついてくらくらする。"子犬"もとい島津豊久は早くだ今すぐだと目を輝かせて起床を促してくる。寝起きに主人の顔を舐め回す子犬そのものだ。 ようは手合わせをしろという話らしいのだが、俺はまだ寝ていたし、元々朝は苦手であって出来れば朝餉の時間までは寝ていたい。そもそもまだ日は昇っていないのだが、島津の朝は日の出に関係なくやってくるのだろうか。 否、こんな時分に起きている者の気配は豊久以外には感じられない。つまりこの"子犬"の朝が異常に早いのだ。 「豊久坊、俺はまだ眠い。というかこんな時間に起こしにくるのは非常識だぞ」 「ごんべ殿が今日相手をしてやると言ったんだ」 「なにもこんな早朝でなくともいいだろう」 「聞けば今日は伯父上とお出かけになるとかで一日いらっしゃらないそうじゃないですか。ならばもうこの時間しかないと」 はて、そうだったか。もしかして酒の席でよく考えずに約束を取り付けたくちか。それは悪いことをしたなあ。 しかしこんな非常識な時間にやってくるのはいただけない。そこは正さねばならない。そうだろう?ああそうだとも俺。 未だ寝ている頭で脳内会話を済ませ、布団から起き上がる。豊久は目を輝かせてこちらを見ている。 「豊久坊、約束を違えるのは本当に申し訳ない。だが俺はこんな時間から普段のようには動けない。だから手合わせなどしてもなんの意味もない。なので約束は明日にしてくれ」 「……後で明日も駄目だったとか言いませんか」 「言わない。本当に誓う。何かあってもお前との約束を優先させる」 早口にそういうと豊久は少しだけ考える風にしてから向き直り、「絶対ですよ」と念を押すように言い、それに応と返すと渋々ながらも自室にか練兵場に戻っていく。 それを見送って俺は再び緩やかに眠りに落ちた。 「ごんべよ、豊久になんぞ言ったか」 城下の市井を見て周り、行き着いた食事処で義弘が切り出す。 「何か、とは」 「今朝はいやに膨れておってな、朝餉をかっこんで練兵場に篭っておった」 「ああ……」 またすっかりと忘れていた早朝の記憶を呼び起こし、義弘に話すと、そんなことか、とぬるい茶ごと飲み込まれてしまう。 「ならば豊久に付き合うてやればよかったろうに」 「いやいや、俺だって九州に遊びに来てる訳じゃないんだけど」 「豊久との稽古を遊びだと」 すっと義弘の空気が変わって強い眼が俺を射抜く。別にそうは言っていない。けれど俺も用あって九州の地に来ている訳で、当主の義久や義弘の時間まで割いて貰っているのだ、本来の目的を潰してまで酒宴の席の約束を優先させるかと言ったら多少心は痛めつつも答えは否だ。 「まあ、子犬とじゃれ遊ぶようなものだな」 「おい」 俺が今まじめに考えて話そうと思った矢先だぞ。俺の呆れ顔をよそにカッカッと笑って運ばれてきた料理に箸をつけ始める。おい、その魚は俺のだ。 盗られた魚の代わりに義弘の大根を奪い童じみた食事を終え城に戻ると、城門の前に佇む豊久の姿があった。 健康的なその肌に傾いた陽が差して、さっき作ったばかりだろうか、生傷の赤みをそっと増してみせていた。 こちらが声をかける前に気づいて飛びついてくるのをさっと避けると、それも気にせず振り返り爛々と目を輝かせる。 「ごんべ殿! 風呂に入りましょう!」 「なんで」 隣で義弘が吹き出した気がするが、豊久の元気な第一声に対して俺は「なんで」と返すのが限界だった。なんで風呂。いや入るけれども、帰ってきて早々にかける言葉としてはどうかと思う。 「お背中お流し致す!」 「結構だよ、なんでそんなに食い気味なの」 「夕餉は済ませられたのだろう? ならばあとは風呂に入って寝るだけです。今晩は酒は禁止ですからね!」 明日の手合わせに支障が出るといけないからな! とふふんと鼻を鳴らす子犬を前に義弘に助けを求めると、さらさら助け舟を出す気がないように擦り寄ってきた猫たちを相手にしている。 つまり明日の鍛錬のためにさっさと風呂入って寝ろというらしい。明日どれだけこの子犬の手合わせに付き合わされるのだろうか。考えただけで疲れてきた気がする。 「風呂入って寝るわ……」 「お背中お流し致します!」 「だからそれはいいって。お前はちゃんと傷の手当をしておけよ。明日どれだけ増えるか分からないからな」 そう言って意地悪く笑うと、はっとした表情をして「望むところだ!」と息巻いて走って行ってしまった。今日も一日鍛錬をしていただろうに、どこまでも元気な子犬である。 あれに一日付き合うのか……、と思わず零してしまった言葉に義弘が反応する。 「ごんべ、そなた豊久のこと結構気に入っておろう」 「わかる?」 「わかるさ」 ここが緩んでおる、と義弘が自身の頬を指して言うのを、緩んだ顔で笑い飛ばした。 2016/11/12 |