「秀吉様は只今来客中である。申し訳無いが此方の部屋で暫し待たれよ」 自分で呼び寄せておいて随分だな、と正直に思ったが此処でそれを口にするほど身の程を知らない人間ではない訳で。 「へえ、太閤様の御用命とあらばいくらでも待たせて頂きましょう」 そす、と畳に手をつき伏していつも通りの笑顔で云う。つまらぬ事で天下人と云うこの上ない取引相手を失う訳にはいかない。取引どころか、自らの命まで失いかねないのだが。 一体どれ程待たされる事だろうか。今日は此処にしか用は無いとは云え、帰れば棚卸しだなんだと仕事は山とあるのだ。商人に暇などありはしない。 太閤・豊臣秀吉は、今でこそ天下人と名を知らしめているが元は下級の農商人だったと聞いた事がある。なれば、この身の苦労も感じ取って欲しいものだが、なるほど、天を掴むと人は変わるものか。 まあ人であるが故に仕方の無い事か、と出された茶をズズと啜った。 無造作に口に含んだ茶に、は、と目が醒める。 (なんて美味い茶だ) 茶葉が上等である事などは当然であろうとさしたる問題ではない。淹れ方が巧いのだ。 「さすがは天下の豊臣家。抱える侍女も一流でございますな」 襖の前で控えている先程の案内人を見遣る。栗色の髪の間からなにやら出納帳の様な物に落としていた視線がこちらに移動するのが判った。 「何か」 「いえ、あまりにもこちらの茶が見事なもので、きっと茶の湯に長けた御家来がいらっしゃるのでしょう、と」 「最高級の茶葉を使っている故、当然の事」 栗色の髪の人物は、ふん、と鼻を鳴らしつまらなそうな声色で言い放つ。そしてまた視線は帳簿に戻ってしまった。 「茶葉が上等である事は判ります。仕事柄、上等な茶を頂く事も多い故、少々舌が肥えておりましてな。しかし茶葉そのものの良し悪しなど些細な事。この茶を淹れられた方はこの茶の性質をよく理解されておられる」 そう云ってまた茶を口に含んだ。先程より温くなったそれだが味はなお感嘆の声を上げさせる。特別、茶が好きだ、という訳ではないが美味いものは好きだ。美味いものは自然と顔を緩ませる。 「…商人というものは無駄に口を動かすものだな」 悪い事は云っていない筈だが、どうやら目の前の人物はお喋りをあまり好まないらしい。明らかに面倒臭いような溜息を吐いて戻ってきていた視線を逸らされてしまった。 「口を動かす事が仕事ゆえ」 機嫌を損ねたかと思いつつも、あえて機嫌を取り直すまでもないかと笑んで流す。少しの時間も惜しい商人はそうやって相手を選ぶのだ。 「…そんなに、先程の茶は美味かったか」 「ええ、とても」 話を続けてくるとは思わず、少し驚きつつもまた応えて笑んだ。目前の相手は、そうか、と顔を伏せて応え、そのまま手元の帳簿に視線を帰した。 もしかして、と思ったが相手はこれ以上の会話を望んでいないと思い口を噤む。静かな空間も嫌いではないが、早く太閤殿の御呼びがかからないものか、と冬にしては強めの日差しを遮り発光する障子をじっと見つめていた。 2012/02/23 |