「あれっ、甲斐ちゃん」
「なによ、待ったはなしよ」


 言うやいなや、甲斐姫は蛇腹剣をぐるんと振り回しごんべをめがけて打ち下ろす。
しなる鞭のような音を立てて剣は地面に打ちつけられた。全く、彼女は手加減というものを知らない。数秒前まで自分の立っていた場所がそれは見事に抉られているのを見て、ぞっとした。


「容赦ない……」
「オラァ!手加減してないでかかってきなさいよぉ!」


 およそ彼女のいう"うら若きか弱い乙女"から発せられることはないであろう、怒号が飛んでくる。手加減云々の話ではないのだが、そもそも忍び相手の立ち回りの練習だかで呼ばれた気がしたのだが。


「甲斐ちゃん、最近、えらい頑張りよう、だねっ」


 休むことを許されず、次々と繰り出される剣戟を避けながら最近の疑問をぶつけてみる。ひゅんひゅんと特徴のある空気を裂く音にかき消されたかと思ったがちゃんと聞こえてはいたらしい。
 ふう、と一息つくと蛇腹剣を元の形に納めて、縁側にどすっと腰を下ろした。甲斐ちゃん、女の子なんだから。


「最近ね、ライバルが出来たのよ。あんたみたいにチョコマカ動く鬱陶しいやつ」
「鬱陶しいって。そりゃあ、忍びだからね」
「そうなのよ、忍びなの。くのいちって言ってさあ」
「ああ、武田の」


 俺が武田の女忍者のことを薄らぼんやりと頭に思い浮かべている間に隣で甲斐姫が「うがー!」という熊のような叫び声を上げて頭を抱えていた。まあ、おおよそ何かの時に戦って負けたのだろうとすぐに原因に思い当たった。
 しかし今まで大抵の女子、というかほとんどの男にすら勝ち越してきた甲斐姫がこんなにも真剣に研鑽に励み、悔しがる。そんな相手が出来たのは良いことだ。なんだかんだ早川姫には本気で打ち合うなんて出来ないし、俺だって同じだ。


「よかったね」
「よくないっ!」


 ばんっ、と自分との間の床を甲斐姫が叩く。と、同時に先ほど言いかけたことを思い出す。


「ああそうだ、甲斐ちゃん、爪ね、紅剥がれちゃってる」
「えっ、うそぉ!」


 ほらここ、と指摘すれば叩き付けた手をばっと引っ込め眺めれば溜息を漏らす。いつも綺麗に染め飾られている爪紅が擦り、ひっかけたように剥げている。戦姫とか熊姫と呼ばれようとも、甲斐姫は立派な女の子なのだ。爪の先まで御洒落をかかさない、年頃の。


「染料、まだある?俺が塗り直してあげるよ」
「あるけどぉ……」


 ちゃんと出来るの?という遠慮の無い言外の不安がぶつけられるがあえて今は何も言わなかった。
 残りの染料と筆を借り、甲斐姫の手をとった。なんだかんだで甲斐姫とこういう風に触れ合うのは初めてかもしれない。そう思うと、そんな年でもないだろう、と自分で思いつつも少し気恥ずかしいものがあった。どうやらそれは彼女も同じようで、いや同じと称していいものか、彼女は年頃の娘なのだから当然か。随分と大人しく、それでいてどこか落ち着かないように自身の爪と俺の手の動きを見つめていた。


「すごい……ごんべって器用なのね」
「あのねえ、俺は忍びだよ、風魔の。小太郎の爪だっていつも誰がやってると」
「えっ、小太郎の爪ってごんべが塗ってたの?なにそれ笑える」


 あの小太郎がごんべに!と普段なら腹を抱えて笑いそうなところを今は爪が、と必死に堪えている。
 俺はというとしまったという焦りが頭を支配していた。どうか、聞かれていませんように(多分、無理だ)


「できたよ」
「きれい!これ自分でやるの大変なのよね。今度からごんべに頼もうかしら」
「今日は特別だよ」
「いいじゃない、小太郎のついでと思ってさ」


 ああ、それあんまり言わないで、と内心頭を抱える。甲斐ちゃんに口止めしたところで効果は望めないだろう。元はといえばうっかり口を滑らせた己が悪いのだ。忍びにうっかりなどあっていいものか。いやだめだ。そういう奴は決まってすぐに命を落とすのだから。

 ほらこういう風に。


「ククク……口は災いの元、魔を呼ぶぞ、ごんべ」
「ほんとそれな……っで、いででで爪!爪食い込んでる喉に!」
「我の爪も染めて貰おうか……紅色に」


 ああ、甲斐ちゃん。
 明日の手合わせの約束は果たせないかもしれない。


2015/12/08

and all...