「姫様、こちらに」


 獣道すら見当たらない茂みをかき分け踏み入っていく。万が一にもその姿に傷をつけるようなものがないように入念に草木を踏み固めて、後ろをゆったりとした足取りでついてくる姫様に振り返った。


「ごんべ、もう少しゆっくり歩いてくれないかしら」


 疲れてしまうわ。とあまりにもよく見慣れた妖艶な笑みをたっぷりと浮かべた姫様は、いつも通りの美しい姫様だった。ただ背景が見慣れた城の中ではなく、鬱蒼と草木の生い茂る森の中だというだけで。


「なにを悠長なことを。追っ手が迫っているのですよ」
「追いつかれたら退ければいいわ」


 なんの為に貴方がいるの、と言われてしまえばなんとも反論は出来なくなってしまう。そうだ、俺はこんな時のために姫様の傍に侍り、お守りするのが務めである。そうではあるのだが、いつものことながら姫様は緊迫感というものをお持ちにならない。

 そもそも何故こんなことになったのか。

 事の経緯はこうだ。今日は濃姫様があの大うつけと名高い織田信長に輿入れをする日であったのだが、稲葉山から那古野城への途上で姫様の輿を狙う狼藉者がいたがために、輿入れの行列から姿を隠し、こうして道外れた森を抜けようとしている。ここいらの土地勘こそ無かったが、生まれ持った方向感覚と嗅覚は何も不安にさせることはなかった。
 なにより、姫様をお連れしているのだから必ず那古野に辿りつかねばならない。その責務はより一層己の歩みを強く、早める原因となっていた。


「それにしても姫様の輿を狙うような狼藉者がのさばっているなど、尾張の内政はどうなっているのでしょうか」


 そんなところに姫様を嫁がせるなどと、道三様も酷い方だ。そんな風に俺が愚痴を溢すと、姫様が小さく笑うものだから、歩みを止めずに顔だけ振り返って見遣る。


「狼藉者が何処の者かなんてわからないわ。信長の手先かも知れないし、はたまた、お父様が差し向けた者かも」
「そんな」
「わからないわ、あのお父様のことだもの」


 愉しいわねえ、ごんべ。そういって本当に愉しそうに姫様が笑う。

 どうしてそんな表情をされるのですか。俺は姫様がお嫁にいかれるのが喜ばしい反面、悲しくてかなしくて仕方がなかったのに。そんな想いを患わせたまま姫様の見送りに呼ばれて、その途上でこんな目に遭って、何故俺を見てそんな風に笑えるのですか。

 俺が二の句を続けられずにいると、背後、だけではなく正面からも人の気配を感じた。背後から追っ手が迫っていようとは思っていたが、まさか正面からも挟撃の形を取られるとは考えていなかった。どうする。焦りを出さないように努めて頭を回転させようとしたのだが、それを姫様の愉しげなままの声が遮った。


「お迎えよ、ごんべ」


 残念ね、そう呟いたように聞こえたのだが、その後から聞こえてきた男の声にかき消されてしまい、もう一度姫様に声をかける事は叶わなかった。


「やあっと見つけた!探したぜ、美濃のお姫さんよ」
「利家、大殿の奥方様に対して無礼であるぞ」
「いっで!すまねえって叔父貴!」


 だから拳骨は勘弁してくれ!とこの場の雰囲気にそぐわない、ぎゃんぎゃんと騒ぐ男は利家というらしい。その隣には貫禄のありすぎるくらいの強面の屈強な男が立っている。
 その屈強な男はこちらに礼を取ったあと、ふと気づいたようにその場に膝をついた。


「大殿、奥方様は無事でございます」


 瞬間、今まで感じなかった圧を感じ背後(進行方向的には正面である)を振り向くと、森の蒼暗さに紛れるような漆黒の鎧を身に着けた男が立っていた。
 この土地で殿と呼ばれる男なんて一人しかいない。織田信長である。噂に聞いていたものとは全く異なるその"気"とでもいうのだろうか、とにかく人を屈服させる目を持っていると、すぐにわかった。俺がそうだった。考える前にその男の前に膝をついていた。


「うぬの働き、まこと大儀」
「……はっ」


 なにもかもが重くて仕方が無かった。この男を前に、ただ頭を垂れるしか出来ることしか出来ない。道三様がこの男を選んだ理由がわかった気がした。あの方の好みだ。

 姫様はと言うと、織田信長に呼ばれて軽やかな足取りでその隣に立たれた。その二人の並び立つ姿があまりにもしっくりきすぎていて、今ここで顔を合わせたのが初めてだなんて誰も思わないような、そんな二人だった。どこまでも、どこであっても、その美しさは濁らないのだなあと改めて思い知った。思い知って、それはそれはこれ以上もう無いというほどに、悲しみで臓物が石になったような気がした。


「ごんべ」


 信長とその共を連れ立って那古野へ赴く姫様がそっと俺の名を呼ぶ。


「もう貴方と二人歩きすることはないのね」


 嗚呼、今この場で両の目を抉り出して、姫様の美しい貌を脳に焼き付けたまま、死んでしまいたかった。


2015/12/15

and all...