「てめえ、こんなところにいやがったのか」


 潮風に晒していた顔に、呆れたような声と陽を遮る雲とは違う影が落ちて目を開ける。そこには想像していた声の主の顔、ではなく乾いた竹籠の底があった。


「ぶっ、痛いですよお館様」
「こんなとこで呆けてんのがわりぃんだろうが」


 おら退きやがれ、と半ば強制的に移動させられ、俺が寝転がっていた位置にどっかとお館様が腰を下ろす。釣り針に捏ね丸めた餌を付け、軽く振り上げて釣り糸を垂らす。あーあ、どうせ何も釣れやしないのに。


「今日は釣れる気がすんだよ」
「いやあ、お館様の気がする、は当てにならないですよ」
「言ってろ小僧」


 そう言ってすいと海面に視線を落としてしまった。こうなるともう暫くはこちらの話に取り合わないだろう。
 こうしている時のお館様は暇を持て余しているようにみえて、その実様々な考えを巡らせている。何よりも家族を(その家族には血縁は勿論、俺達家臣も、民も、土地も、この海も含まれている)大切にしている人だから、守るべきものが多いから、ずっとその思考を働かせ続けなきゃいけない。俺たちはその思考を助けることは出来ないから、お館様が思考することを援け、すぐに動けるようにするんだ。

 横からくるりとお館様の背後に回って、その広い広い背中に頭を預ける。お館様は微動だにもしなければ何も言わない。
 そうだ、昔からずっと同じことをしているのだから、今更何を言ったって無駄だとわかっている。このお館様の釣りの穴場(ただし釣れるとは言っていない)はほとんどの家臣達は知らない。姫様や御兄弟、甲斐に小太郎、指折り数えるほどの者しか此処へは来ない。だから、今ここでなら、堂々と甘えてもいいと思うじゃないか。


「お前なあ、いつまでも主君の背中を枕にしてんじゃあねえ」
「やだなあ、お館様と俺のお小姓時代からの付き合いじゃないですか」
「けっ、可愛げの欠片も無くなりやがって」


 釣りが終わったのか、針を戻して立ち上がるお館様の腰の魚籠を覗き見る。釣果はまあいつも通りというものだ。


「釣果が無くても餌は減るんだから、相模の魚はよく肥えるわけですねえ」
「おかげでうめえ魚がたらふく食えるんだろうが。感謝しやがれ」
「愛しの相模の海よー!愛しのお館様よー!ありがとう!」


 わざとらしく海に向かって叫んでみれば後ろから「馬鹿か」と拳骨を食らった。冗談じゃないですか。いや、冗談ではないんだけれども。


 愛しの愛しのお館様、愛しの海に還らせて。


 空の魚籠が潮風に煽られてこそりと揺れる。持ち主はもういないのに。一度もいっぱいにならなかった魚籠が今は俺の涙だけをその身に受けて、けれどもやっぱり籠がいっぱいになることはない。

 あの人が愛した相模の大地よ、相模の海よ、どうか俺を受け入れて欲しい。

 お館様、俺は貴方のいない世界ではどうにも生きてはいけないようです。それなのに、貴方は俺に後を頼むなんていうのだから、鬼畜生の所業だと思うわけです。愛しい人に会いたい気持ちと、愛しい人の遺言を守るのはどちらが尊いと思いますか。

 仕方ないから、もう少し頑張って生きてここをお守りしていきますけど。でもどうか、俺の最期が来た時には。


「小太郎、いるだろう」


 返事は無いが背後で潮風とは違うものが吹いた気がした。


「俺が死んだら、どうかこの海に沈めてくれ」


 あの人の愛した相模の海に、永遠に愛される海に。


2015/12/11

and all...