「佐助ーさすけー」


 すっかりと陽が落ちた湖畔は鬱蒼と暗く、静まり返っている。
 夏だというのに、湖を這って吹き抜ける風は涼やかで、日中の蒸し暑さを忘れさせてくれるようだった。


「さーすーけーー」


 さて、俺はというと共連れだって諏訪湖半へ釣りへ来た訳なのだが、今は一人陽の落ちた湖畔の森を彷徨っていた。
 迷った訳ではないが、その共連れの相手が見当たらないのだ。まあ相手は忍びの者であるので俺がわざわざ探して捕まえないといけないような相手ではないから、その点は心配はないのだが。
 一応、俺が無理矢理引っ張ってきたようなものだから、礼もせねばと探してはいるのだが見つからない。
 釣り場についてからしばらくは傍にいた気がするが、俺が「イワナを100匹釣るまで帰らない」と言ったらうんざりという顔をしてどこかへ行ってしまった。
 勝手に帰るような子ではないとは思うのだが、如何せん未だ佐助のことをよく知らない。

 少しでも仲良くなれればいいなあと思って同行を頼んだのだが、結局各々好きに行動しているのだから意味無かったなあなどと考えている内に、湖畔の奥地に辿り着いてしまった。
 いい加減引き返さないと戻るのが億劫な距離になってしまう。やはり佐助は先に帰ったのだろうか。それならばそれで良いのだが。

 元来た道を戻り始めたところで運の悪いことに賊に出くわしてしまった。丸腰ではないものの、自分は夜目がききにくい自覚がある。加えて本日の釣果で足が鈍い。
 姿がろくに捉えられないのでよく吼える賊であることしかわからない。さてどうしたものかと思案し始めた時、賊の恫喝が断末魔に変わった。
 木々の隙間から差し込む月光に鈍く光を放ったのは見知った苦無であるように見えた。
 それが確かであるなら、


「佐助」


 斃れた賊の傍らに音もなく現れた姿に安堵する。
 苦無の血を払い、寄ってくるのは間違いなく探し人だった。


「探したぞ」
「そっれアンタが言う!? 探したのはこっちだっつーの!」
「そうか、悪い悪い。手間をかけさせた」
「ほんとに悪いと思ってんのかねえ」


 やれやれ、と首を振る佐助は本当に探し回ってくれていたのだろう、髪に緑が絡まっている。手を伸ばして取り除いてやるとよほど驚いたのか肩を跳ねさせて飛び退いた。


「悪い、そんなに驚くとは」
「別に……」
「……帰ろうか」


 ばつの悪そうな佐助の言葉を待たずに歩き出す。と、数歩歩みを進めたところで先ほどの賊の身体に躓いてしまう。それを佐助が支えてくれたので、こんな短時間で二度も助けられてしまった。


「アンタ、鈍臭いな」
「すまんな、夜目がきかないもんで」


 なのにこんなに暗い森の中を歩き回っていたのか? と怒られてしまう。今日は仲良くなるどころか、佐助には苦労をかけさせてばかりだ。こんな些細なことを気にするような人間ではないとは思うが、これでは一進一退どころではない。

 出口に差し掛かる頃には辺りはとっぷりと昏れていた。これは夕餉には間に合わないだろうか。どうせ間に合わぬなら少々寄りたいところがある。


「佐助、腹は減っているか」
「え? まあ、言うほど減ってはねーけど」
「よし、じゃあちょっと寄り道しよう」
「はあ?」


 これ以上どこをほっつき歩くって言うんだ、と唸る佐助の手を取る。この子はあまり人と触れ合ったことが無いのかもしれない。またしても大仰に肩を跳ねさせた感触に苦笑した。

 湖畔の出口から少しそれて小さな流れのある水路に辿り着く。
 蒲の葉がさざめいて、そこには、


「おお、いるいる。佐助はホタル好きか? 前に虫が好きだと言っていた気がしたから」


 ここ俺の秘密の穴場なんだよ、そう言おうとして振り返り、俺はくっと言葉を飲み込んでしまった。

 ホタルを見つめる佐助が見たことのないかおをしていたから。

 ゆらゆらとしたホタルの光が佐助の大きな瞳に映って、その瞳から涙がこぼれ落ちたように見えた。それにどきっとしたものの、よく見れば泣いてはいなかった。
 けれど何か言葉を発したらやはり涙があふれてしまいそうな気がして、俺は黙って佐助の顔を見つめることしか出来なかった。


「すげぇ……綺麗だ」


 佐助がぽつりと呟いて、やっとこの場に魂が戻ったような心地だった。佐助も俺もしばし無言でホタルを眺め続けていた。その内自分達の魂もホタルに混ざって飛んでいってしまうんじゃないかなんて、冗談にならないことを考え始めていた頃だ。


「ホタル、好きだった?」
「ん……ホタルは好きだ」
「そうか、よかった」
「……」


 ホタルを見つめ続けていた佐助の目がこちらを向いて、やはりその目に涙は浮かんではいなかったけれど、涙ではなく、別のなにか。その、何かはわからないが常時の佐助には無い別のものがその瞳に浮かんでいるようで。
 衝動的に抱きしめたくなったのを佐助を正面にして我に返る。また無用な驚きを与えてしまうだけだ。この距離を多少惜しいな、と思いながらもその横を抜け出口を目指す。
 なんとなく、なんとなくだけど少なくとも佐助に嫌われているということは無いんじゃないかなあ、と特に根拠もなく思ったが、どうしても聞いてみたくなって後ろをついてくる佐助に声をかける。


「佐助、またホタル見にきてくれる? 俺と一緒に」
「……まあ、いーけど」


 今はこの返事だけで十分だった。


2016/12/02

and all...