「半蔵殿! あいつがやったんだ。絶対に、そうじゃなきゃこんなことおかしいだろう? なんで追わないんだ!」
「ごんべ殿、落ち着け。確かに三太夫はくさい。が、奴の仕業と決めつけるには確証がない」
「そんなもの! 信康様と、瀬名様が……姫様が死んだんだぞ……っ!?」


 姫様。姫様。
美しくお優しい姫様。

 幼少の砌よりお仕えして来た姫様が、義元様の命により徳川家康に嫁ぐと聞いて、なんて幸運な男がいるものかと嫉妬の余り、道場の柱を折ってお叱りを受けたのは遠い記憶。
 輿入れの姫様に付いて徳川家にやってきたものの、当の徳川家康は見るからに軟弱者で、とても姫様に釣り合うとは思えず、怒りの余り居室の障子を4枚ほど薙ぎ倒して叱責されたのも遠い記憶。

 俺がそんな調子な上、姫様の高潔さと威光(俗な者達が言うには高飛車過ぎる態度)に堪えかねた者達が、我々を鼻つまみ者にするには時間を要さなかった。
 俺は毎日のように姫様の愚痴を聞き慰め、そしていつの日か、次第に家康に心を開き始めたのを察し少しばかり寂しく思う事もあった。

 姫様が家康を認め、俺自身も戦功を上げることで徳川の家臣達との関係も幾分か良くなった頃、義元様が討たれ、徳川家は完全に独立する事になった。俺は本当はこの時、姫様は家康を責め、徳川を離れたがると思っていた。しかし、俺の考えとは裏腹に姫様ははっきりと、徳川の人間として生きていくと宣言された。俺はこの時ほど己の浅はかさを恥じたことは無い。
 亡き義元様の命を忠実に守り、そしてこの時にはもう、家康に対して確かな愛情を抱いていたのだろう。


「姫様がそう仰られるのであれば、俺はこの先もここで姫様をお守りするだけです」
「ありがとう、ごんべ。……それにしても、私はもうここでは姫様ではないのよ? ちゃんと瀬名様とお呼びなさい」
「うーん……しかし俺にとっては姫様はいつまでも姫様のままですから」
「もう! ごんべ!」
「はいはい。わかりました、瀬名様」


 信康様は瀬名様の幼少期にそっくりで、それはもう素直で可愛くて聡明で、あまりにも猫可愛がりが過ぎるものだから瀬名様に一時信康様禁止令が出される程だった。


「ごんべ、これからはこの子をよく守ってね。あんたにしか頼めないんだから」
「承知しました。……でも俺は瀬名様の事もずっとお守り致しますよ」
「ふふ、そうね。それもあんたにしか務まらないわ」


 一瞬で、二人とも失ってしまった。俺がもっと信康様の身辺に気を配っていれば。俺がもっと瀬名様のお側に控えていれば。
 俺が中央に着いた頃には、瀬名様は血溜まりの中にいた。元より白磁のようなかんばせは血の気を失い、投げ出された四肢は更に細く見える。俺が側を離れなければ。こんな事になるなら、家康を殺してでも、止めたのに。


「……こうなる事を予見して、瀬名はそなたをあえて離れた場所に置いたのだろうな」


 そんなことはわかっている。俺が瀬名様の危機に我を忘れて味方に被害を出すかもしれない。俺自身を盾にしてでも瀬名様を守るだろうと、瀬名様はよく知っている。不満だった今回の配置は、瀬名様が俺を守るためだ。


「瀬名様……」


 横たわった瀬名様の顔に触れる。指先にぬちゃりと固まり始めた血が絡み付き手が震えたが、すぐ傍らに落ちている瀬名様の小刀に気付き拾い上げた。今川紋の入った、義元様の形見だといつも大切に持ち歩いていた物だ。瀬名様の血に濡れて鈍く光を反射する刀身を眺めて、まるで吸い込まれるかのように、瀬名様と同じく、首に。


「やめろ! 馬鹿野郎!」
「ぅ、ぐっ……!」


 物凄い力で殴り飛ばされ、地面に叩きつけられる。背中を打ち付けると、益々呼吸がつらくなった。


「っ平八、あまり手荒な事は」
「うるせえ! こんな大馬鹿野郎、こうでもしねえと止まらねえだろうが!」


 俺を殴り飛ばした犯人は忠勝殿らしい。静止しようとする家康を振り切り、更に咳き込む俺を引きずり立たせて頬を打つ。強烈な衝撃に脳が揺さぶられるようだった。これで死んだら本多家を末代まで呪うだろう。


「てめえ! 出立前に瀬名様と交わした約束を忘れたのか!?」
「!」


『ごんべ、これから先、私に何があってもあんたは家康を守るのよ』


 出立前に呼び止められて、そう言われた。それは穏やかな約束ではないですね、そうやって笑い飛ばしたけれど瀬名様の目はとても真剣だった。信康様も瀬名様も守るけれど、家康様も守れだなんて、とうとう両の手では足りなくなってしまったじゃないですか。瀬名様の真剣な瞳の奥を知りたくなくて、冗談ばかりではぐらかした。この空いてしまった両の手で、俺はこれから家康を守っていかなければならないのだ。


「瀬名様が死んじまったら、てめえは約束を違えるのか」
「そんなわけ、ないだろう……! 瀬名様の命は、瀬名様は俺のすべてなんだから」
「だったら瀬名様の最期もすべて受け入れて自分の足で立て」


 俺達はまだ先に進まなきゃならねえんだから。

 忠勝殿に手を離されると、かくりと膝が折れてしまった。震える足を叱咤して、なんとか立ち上がる。瀬名様の姿を目に焼き付けて、閉じ、深く深く礼をした。瀬名様、まだ安らかにお眠りになることは出来ないでしょうが、いずれ必ずこの俺が、真犯人を暴いて貴女に安寧を齎しましょう。だからその時まで、少しだけお休みください。
 そしてもし、俺が真相を暴き仇討を成せた時には、夢の中でもいい、また威厳あるその美しいお顔と声でよくやったと褒めて欲しい。


2021/07/01


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