彼の偶像
「なんつーか、ずっと違和感なくおったけど、お前って俺より年下やったよな」
「そういえばそんな気がする」
「その割に可愛げがない」
「何それ。私に可愛げがあってもどうしようもないだろ」
「いやなんかな、クルシマはいつまでも敬語なのになーって思って」
「ノラに対して私は一度も敬語をつかったことないけど」
そうだっただろうか、と思い出してみれば、確かにその通りだ。
学生の頃なら先輩後輩の関係は誰だって意識するもので、砕けていても敬語にはなりそうなものだ。しかしキタはタメ口だった。普通に。俺はそれに対して生意気だとか思わず、こいつはこういう生き物なんだと素直に受け入れていた。
それも含めてあの頃は可愛げがあった。ぽややんなゆるーい顔で「ノラ、ノラ」と呼ぶのだ。妹のような近しい距離感。今では考えられないが俺は相当猫可愛がりしていた覚えがある。
なにせ珍しかったのだ。何も求めずやかましくもなく、変に媚びることもなく。自然体のまま俺に近づいて自分は自分のまま確かな意思を持っていたキタ。何をしたわけでもなく懐いてきて、俺はどことなく優越感に浸れていた。多分それも理由の一つだったのだろう。キタを傍に置くことで他の連中より一つ上のステータスが付加されていた。もっと俺だけを見ればいいと余計に構っていた。
当時のことを思い出すと今とまるきり正反対の感情で、逆に面白い。我ながらあの頃から執着心が凄まじかった。
「なあ、ちょっと敬語つかってみてくれん?」
「はあ?」
どんな感じだろうかと単なる興味でお願いしてみる。他の連中に対しても丁寧なキタは見たことがない。だから想像してもいまいち違う、と感じてしまう。
「なんで今さらノラに敬語なんか……気持ち悪い」
「じゃあお前が敬語になる相手っておるん? 」
「……いない、かも。取引先には丁寧にはなるけど」
なんというか、大した奴だ。不遜といってもいい。誰に対しても常に自分であるのだ、敬う気持ちはあるのだろうがそれで殊更に態度を変えたりはしない。正直で真摯であるしビジネスにおいては気にされることはないはずだが、そういう偽らない姿を嫌う人間はたくさんいるだろう。幸い暗黒街は自立した強気な人間でないと生き残れないので、キタが特別目に付くこともない。むしろカギサキあたりは良い意味で気にかけているくらいである。
誰を相手にしても不変なキタ。俺相手に丁寧になるはずもないのだ。
下に見られることもないが、そこいらの雑多と同じ扱いであるのはつまらない。俺はこいつにとって特別であるべきなのだから。
「なあ、敬語」
「嫌だ」
「ケチ」
「ケチで結構。ノラに敬語とか気持ち悪くて仕方ない」
二回目。そりゃあ確かに俺に対して畏まったキタなんか気持ち悪いだろう。本人が考えるよりひどいものだと思う。
だが例え気持ち悪かろうが見たことがないものを見たいと思うのは人の性というやつではないだろうか。
しかしながらこの女は例え金を積まれても自分を曲げない奴だ。こんなくだらないことでもそれは変わらない。
いっそ気付かなければ良かった。どうして俺はふとした瞬間に敬語の有無なんて考えてしまったんだ。阿呆だ。どうせ結果は分かりきっていたものなのに。
また唐突に何を言うのだ、と呆れた。
ノラはたまに私にくだらないことを要求してくる。普通の人ならしてこないような、些細なんだけれど本人にとっては重要らしいこと。
仕事でもないのにどうしてわざわざ言う事をきかなければいけないのか、ましてやその相手がノラとあっては例え些細であろうと反発したくなる。
今回だってそうだ。敬語だって? またどうしてそんなもの。ノラの思考回路は単純なくせに時々理解できない。別に本気で理解したいとも思わないから要求に応えないのだが、嫌だと断ってもしつこく食い下がってくる。どうせすぐ飽きるくせにこういうところが奴の面倒な部分だ。
適当にあしらってしまえばきっと次に会う時は忘れてまた別の要求をしてくるだろう。これまでがそうだった。この男だって何回ものやりとりで展開は読めているはずだ、その証拠にノラは食い下がる割に既に諦めに似た顔をしている。
(逆にこれは奴の望み通りなんじゃないか?)
ノラが期待する「キタ」という偶像。
私は特別でもなんでもない。ただの女だ。多少立場やらなんやらと付随するものはあるが、中身自体はめんどくさがりで頑固で面白みに欠けた平凡な人間である。
過大評価している。奴にとって「キタ」は誰にも左右されない染まらない不変の存在であるらしい。良くも悪くも等しく扱う、だからノラは自分が特別になりたいと願っている――固執している、馬鹿な男。
意見を翻さないことで奴の「キタ」の通りに動くのは癪だ。
「ノラさん」
「――っ、は?」
「これでいいでしょうか」
絶句している。
呆れたり嫌そうな顔といった表情は何度も目にしてきたが、本当に言葉を失っているらしいそれは初めてかもしれない。なるほど、思わぬ反撃にはこんな風になるようだ。なんとなく、気分が良い。
自然と笑みがこぼれた。
次の瞬間、ガッと肩を掴まれた。痛い。
「ノラさん?」
「ぃや、な、やっぱ止めとこ。うん、お前はお前のまんまでいいわ」
「ふうん」
自分でも違和感が凄まじいので言われなくてもすぐ止めるつもりではいた。ノラの琴線にはどう触れたのだろう。
やっぱり気持ち悪いと思ったのだろうか。それとも意見を変えたことに失望しただろうか。いずれにせよ負の感情が生じたことには違いない。でなければこんな真剣な面にはならない。ノラが真面目そうな顔をするのはどちらかと言えば不都合な場面でだ。
肩を掴んだまま項垂れるように頭を下げる。傍から見れば懇願されているようではなかろうか。それも踏まえるとやっぱり気分が良い。普段は見上げる立場だからこんな風にノラの頭を見れるなんて少しだけ楽しいではないか。
「あー、なんつーかな……」
「なに」
「衝撃的やった」
「なら甲斐があったな」
どんな衝撃を与えられたのかは分からないが、意味はあったらしい。これで「へえ」の一言だけの反応だったならどんなにつまらなかったことだろう。ノラが人並みに感情を面に出す人間で良かった。
驚いたなんてものじゃない。世界がひっくり返るような衝撃だった。
あのキタがまさか言う通りに従うとは思ってもみなかった。何の期待もしていなかっただけに余計に脳みそが混乱した。
それで感想はと言えば、まあこんなものかという感じだ。確かに「さん」付けで呼ばれるなんて他の誰からでもそうだが、ひどく背中がこそばいゆい気持ちになる。キタからそう呼ばれるのは本当に不思議な感覚で、まるで別人に呼ばれたように思えた。やはりこの女は先輩後輩もない不遜な様が似合う。畏まったキタは、やっぱり予想通り気味が悪い。
とまあ望んだものが簡単に見られたのでそこは満足なのだが、それより何よりもだ。キタが笑った。一番衝撃的だったのはそこだ。
なにせ俺や他の暗黒街に生きる野郎ども相手には気を張って一瞬たりとも隙を見せようとしない人間なのだ。笑うなんて、せいぜいアマネと話している時くらいだ。それだって俺が見ていると分かれば即座に消えてしまうものだし、奴を笑わせることはとうてい無理だった。
なのにだ。驚く俺を見て笑ったのだ。なんだそれ。
正直言って、嬉しかった。喜悦だ。
ものすごく自然な笑みに、なんだか学生の頃を思い出して引き込まれそうになった。ダメだ、俺から手放したというのにここにきてまた捉まえたくなるんて手を伸ばしたくなるなんて。
キタはアホだから俺が本当は何に反応したかなんて気付かない。そのくせまた頬が緩んでいる。こいつはなんなんだ、俺を殺す気か。無意識が一番恐ろしい。最も卑怯な手口だ。
(それだけキタの気も緩んでいるんだろう、が)
俺の望みを叶えただけでなく笑顔を見せてくれるなんて今日はとんでもなく幸運な日かもしれない。その分明日に不運がどっと押し寄せてくるのかもしれないが、なんとなく今の気分なら、それでもいいかもしれないなとか思ってしまう。