Andesine6.5


それを逃げと言うのです

「父さんは物には執着しないのね」

ある日アマネがそんなことを唐突に切り出した。俺は今しがた捨てたばかりのシャツに目をやる。初めはカラフルで気分が上がるからと好んでよく着ていた。一時はお気に入りだった。けど今日になってふと目に入った途端、もういいや、と飽きがきてそれでさよならだ。我ながら未練もなくむしろ清々しい気持ちだった。
アマネに指摘されて思い返せば、確かに俺は物に対する興味と飽きのサイクルが早い気がする。執着しないと言われればそうなのだろう。意識したこともなかったが。
けれど「物には」だって? それ以外の別の何かには執着しているような言いぐさではないか。不満で問えばアマネはわざとらしく肩を落として頭を振る。そんな嫌味たらしい仕草、どこで覚えてくるのだか。

「本当に父さんってば自覚がないのね」
「何がだ」
「父さんはキタさんにはひどく執着しているわ」

なんという侮辱だろうか!
俺はあまりのことに絶句して、我が娘の言葉をシャツ同様すぐさまゴミ箱に投げ捨ててしまいたくなった。だが聞いてしまったものはもうどうしようもない。ここで話題を上手く切り替えられるほど器用でもない。
とりあえず更に不満たっぷりの顔で軽く睨んでおく。アマネは父の尊厳など知ったことないと言わんばかりに鼻を鳴らしてみせた。それで気付いたが、一応はアマネの母親たる女に似ているのだ。あれも大概どうしようもない人間だったが、時折俺に対して「こんなことも分からないの?」とそれこそ嫌味の一言を添えて今見たような仕草をするのだ。思い出した。
(なつかしい)
どれくらい会っていないのだろうか。七、八年は余裕で顔を見ていない。今はどうしているだろうか、なんて心を寄せる間もなく頭の中では「きっと他の男に貢がせて悠々自適に暮らしているに違いない」と予想が立つ。
ろくすっぽ会ったことも育てられたこともないアマネだが、やはり血というのは確かに縁を感じさせる。性格は丸きり似ていないというのにどうして鼻につく部分は似通ってしまうのだろう。
あんな風に大きくならないことを願いつつ、とりあえず娘の言い分に耳を傾けてみる。

「だってそうでしょう? 執着していないなら、私がどう思っていてもキタさんを無いものとして扱うはずだわ。でも父さんはそうしない。私を理由にいつも何くれとなく構う。奥底でキタさんを欲している」
「お前……なんってバカなことを」
「キタさんに執着していないって言うの?」
「当たり前やろ」

確かに、確かに過去にはあれを傍に繋ぎとめておきたいと思って色々構ってやったりもしたが。結局あいつが離れることを選んだから、俺もじゃあいらないと捨てた。そう、捨てたのだ。シャツと同じ。あの時点で俺は確かにキタへの執着を断ち切ったはずで、アマネが言うような欲求はない。
節穴だ。俺はキタを今更拾い上げようとは思わないし、傍にいてほしいとも思わない。

「父さん、だからそれが自覚がないと言っているのよ。じゃあ訊くけれど、キタさんがもし誰かと付き合ったらどう思うの」
「そりゃあ、別に。好きにしたらいいと思う」
「本当に? きちんと想像してみた? クルシマさんで考えてみた?」
「なんでアイツなん」

クルシマ? あの何を考えているのかわからない男か。
キタを多分、好きなんだろう。キタも多分奴のことは信頼している。学生時代から現在までずっと一緒だ。あの二人が付き合ったとしても現状と変わらない気がする。キタは絶対に私情を持ち込まないだろうし、クルシマもその主義を否定しない。だから傍目には何も変わらないし、下手すれば誰にもそうだと気付かせないかもしれない。
はっきり言って全く想像できない。
これは俺の想像力が貧困だからとかそういうことではなく、奴らが普通の恋人と同じように甘い空気を出す人間でないからだ。
逆にアマネは想像できるのだろうか?
一体どんな思考回路をしているのか分からない娘の、脳内の二人。
まあ、どんな想像でも妄想でも構わないが、とにかく俺はキタが誰と付き合おうとも嫉妬なんておきないし知り合いとして「おめでとう」の一言くらい言ってやれるつもりだ。

「まああれを幸せにできるような野郎が現れるとは思わんけどな」
「女の人は?」
「アマネがなるか?」
「……意地悪だわ」

どっちが。
アマネが大きくなってもしキタと付き合うようにでもなったら。有り得ないことではあるけど本人の言うところの「きちんと想像してみる」を実践する。
まずアマネは美人になっていることだろう。間違いない。母親にあたる女は、性格はさておき見た目だけは良かった。
まだまだ幼いがそれでもしっかり母親譲りの自己を確立した瞳に、さらりと柔らかい肌。地味に徹しているが目鼻立ちの整った容姿は贔屓目に見なくても美しい。さすがだ。故にこのまま成長すればいつかの彼女のようにそれはもう男を侍らすことなんて余裕で可能になるはずだ。
そんな美人とそこそこの容姿のキタ。見れないことはない。キタの仕事はクソだが性格は真面目で誠実だしそこは心配ない。問題はない。アマネは母親と違って浮気心も遊び心もないから一途でキタだけに尽くすだろう。家事も完璧だ。やっぱり問題ない。
問題ないのならば幸せにだってなれるはずだ、その気があれば。

「キタさんは私をそういう対象として見てはくれないわ」
「お前が大きくなったら分からんぞ」
「父さん、気休めはよして。だいたいキタさんに恋愛感情があるようにも思えないの」

我が娘は本当によく出来た娘だ。キタのことをよく分かっている。
もし誰かと付き合ったら、なんてもしもの話をされた時に、あのキタが誰かと愛し合う姿を全く想像できなかったのは結局のところあいつにその感情があるようには思えなかったからだ。欠落しているというか、単純に「恋」が何かも分かっていないような気がする。青春を俺に潰されたせいなのか、あれは色恋を知らないまま暗黒街に来てしまっている。そして愛だ恋だという甘い気持ちより生きる為の冷静さを身につけてしまった。
子供ながらその足りない部分を見抜いているアマネは、どんな気持ちだろうか。好きな相手に一片たりとも伝わらず、だからといって嫌われているわけではないから心が離れることもない。さぞかしもどかしいことだろう。
可哀想、と一応は思ってみる。だがそんなこと本人に漏らせばきっと怒るに違いない。娘の恋が実ることがないのは俺がそもそもの原因かもしれないのだ。あるいは遠回しな天罰。ツケが回ってきたのだ。
だから俺が娘に同情するわけにはいかない。

「キタが誰と付き合おうが関係ないし、お前があれを好きでいるのも構わん。俺は別に執着してないしな」
「自覚しようとしない大人はズルいわ」

大人びた口調で俺を突き放す。
自覚なんて、したところで何が変わるわけでもあるまい。結果が同じなら、する意味なんてないじゃないか。
意味のないことはさっさと忘却にやる。そうやって俺は生きてきたのだ。