幼い私の世界は、いつだって不確かに揺らいでいた。
傑とは家が近所で、物心つく前から、互いの影を踏み合うようにして育った。
何が原因なのかはわからない。けれど私は昔から、得体の知れない「薄気味悪い気配」を引き寄せる体質だった。冷たい手で背中をなぞられるような、じっとりとした悪寒。けれど私には、それが何なのか「視えない」。

恐怖で足がすくみ、今にも泣き出しそうになると、決まって傑がどこからともなく現れた。
彼は何も言わずに、私の背後へそっと大きな手をかざす。

「大丈夫」

その一言で、世界を侵食していた冷たい気配が、嘘のように霧散していく。
彼が何をしているのかは分からなかった。それでも傑は、怯える私を暗闇から救い出してくれる、世界でたった一人の静かなヒーローだった。
学業も、運動も、その整った涼やかな容姿も。すべてにおいて完璧すぎる幼馴染。

歳を重ねるにつれ、私の胸の内に灯った灯火は、単なる「憧れ」の枠には収まらなくなっていた。
気づけば私は、彼をひとりの「好きな人」として、切ないほどに見つめるようになっていた。

しかし中学三年の、凍てつく冬。
吐く息が白く染まる寒空の下、彼はいつも通りの淡々とした口調で、私の世界を引っくり返した。

「東京の呪術高専に行くことにした」

その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、胸の奥が音を立てて冷えていくのがわかった。
ああ、彼は本当に行ってしまうのだ。私には感知することすらできない、選ばれた者だけが住まう、遥か遠い世界へ。

(彼の重荷にだけは、なりたくない)

突っぱねられるのが怖かったわけじゃない。ただ、彼の進む道を私の我が儘で邪魔したくなかった。そんな臆病な自尊心が、私の顔に偽りの笑顔を張り付かせる。

「頑張ってね」

喉の奥まで出かかった「行かないで」という恋情を、冷たい空気と一緒に無理やり飲み込んだ。精一杯の祝福。それが、当時の私が精一杯に張った強がりだった。

────────

傑のいない春は、想像していたよりもずっと静かで、どこか頼りないものだった。
不定期に届く短いメールと、たまに響く受話器越しの声。それだけが、今の私と彼を繋ぎ止める、今にも千切れそうな細い蜘蛛の糸だった。

『同級生がさ、すごいんだよ』

電話の向こう、傑の声が微かに弾んでいた。特に「悟」という名前を口にするとき、彼の声はどこか誇らしげで、楽しそうだった。
生まれて初めて出会ったであろう、自分と同等、あるいはそれ以上の存在。
それが彼にとってどれほど深い救いだったのか、受話器を握る手に伝わる熱量だけで、痛いほど分かってしまう。

――羨ましかった。
傑の隣を歩く権利を持つ、その「悟」という少年が。傑にそこまで「すごい」と認められる彼が。
もし私にも彼と同じものが視えれば。隣で手を取り合って戦う術式があれば。
届かない夜空を見上げて、何度、そんな無意味な仮定を繰り返しただろう。

そして、待ち焦がれていた夏休み。
帰省を今か今かと待っていた私に届いたのは、「忙しくて帰れない」という、画面上の短い断り文句だった。
このまま会えないまま、季節が移り変わってしまう。その恐怖が、私を突き動かした。

「東京に行きたいの。お願い、お母さん」

何度も何度も母に縋り付いた。当然、猛反対された。見知らぬ土地へ娘を一人で出す親などいない。けれど、今回ばかりは私も折れなかった。毎日、必死に頭を下げて願い続け、ようやく勝ち取った許可。
『神奈川の祖父の家に滞在すること』、それが自由の代償だったけれど、そんな条件はどうでもよかった。傑に会えるなら、何だっていい。

翌日、私は全貯金とわずかな荷物をカバンに詰め込み、逃げるように電車に飛び乗った。
傑には内緒だ。突然現れて、驚く彼の顔が見たかった。

けれど、現実はそう甘くはない。
初めて降り立つ東京の喧騒、蜘蛛の巣のように入り組んだ地下鉄。郊外にあるという「都立呪術高等専門学校」を目指したものの、案の定、私は完全に迷子になった。
都会の人は誰も彼もが忙しそうで、握りしめた地図は私を嘲笑うように現在地を見失わせる。ようやく親切な老婦人に道を教えてもらい、辿り着く頃には、西の空が燃えるような茜色に染まり始めていた。
高専へと続く静かな正門前。

「今日は簡単な任務があるから、夕方には終わる」と朝届いていたメールの言葉だけを信じて、私はぽつんと立ち尽くしていた。
やがて、長い山道の向こうから、三つの人影が近づいてくる。

「……唯?」

聞き慣れた、けれど記憶よりも少しだけ低くなった声。
私の姿を捉えた傑が、信じられないものを見たというふうに、その細い目を見開いた。
少し伸びた背丈。耳元で緩く結い上げられた黒髪。独特な仕立ての、少し着崩した高専の制服。
数ヶ月ぶりに生で見るその姿に、心臓が爆発しそうなほど跳ね上がる。
(……やっぱり、好き。どうしても、好きだ)

「来ちゃった」

私が照れ隠しに小さく笑うと、傑は一瞬だけ呆けたように固まり、それからいつものように、ふっと柔らかく目を細めた。

「へぇー、傑の幼なじみね」

立ち話もなんだからと、私たちは近くのマクドナルドへ向かった。そこには電話で聞いていた同級生二人も、当然のように席を並べていた。
五条悟は、日本人離れした彫刻のような美貌に反して、驚くほど気さくで生意気な少年だった。家入硝子は、同い年とは思えないほど達観した雰囲気を纏っていたけれど、そのサバサバとした気取らない態度は、不思議と心地よかった。
勝手に電話の声だけで嫉妬し、落ち込んでいた自分がひどく子供っぽくて、急に恥ずかしさが込み上げてくる。

「東京にちょっと遊びに来たくて。傑がいるなら、色々案内してもらおうと思って」
「私は案内人扱いか」
「いいじゃん、利用できるもんは利用しとけって!」

悟くんがケタケタと悪戯っぽく笑い、傑が困ったように苦笑する。
本当は、ただ、あなたに会いたかっただけ。そんな本音、この賑やかで眩しい空気の中では、口が裂けても言えそうにないけれど。
けれど、そんな二時間ほどの楽しい時間は、砂時計の砂のようにあっという間に過ぎ去ってしまった。

「送るよ」

駅へ向かう帰り道。傑が静かに隣を歩いてくれる。
見知らぬ街、夜の帳がしっとりと下りていく道。並んで歩く、ただそれだけのことが、今の私には奇跡のように思えた。
(私たち、知らない人から見たら……少しは、カップルに見えたりするのかな)
そんな淡い期待が頭をよぎり、盗み見た彼の横顔があまりに綺麗で、急に顔が熱くなる。

「送ってくれてありがとう」
「東京は危ないからね。呪霊も多いし、油断してはいけないよ」
「ふふ、さすが呪術師だね」
「……まあね」

低く、心地よく響く彼の笑い声。
いつか、この大きな手と指を絡めて歩きたい。冬になれば、一緒に冷たい風に吹かれながらイルミネーションを見たい。
そんな、呪術の世界とはおよそ無縁な、平凡で、そしてきっと叶わない未来を、私は勝手に思い描いてしまう。

「こっちにいる間は、いつでも会えるから。時間がある時、また遊ぼうね」
「ああ。時間が取れたら、唯の行きたいところへ行こう」

その言葉ひとつだけで。
これから過ごす一ヶ月、いや、これからの人生すべてを使い果たすほどの幸せが、約束されたような気がしていた。




さよなら日常



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