「夏祭り、行こうぜ」
その一言で、私の夏は色を変えた。言い出したのは、案の定、悟だ。
東京の大きな花火大会。ずっと憧れていたけれど、人混みを理由に諦めていた場所だった。
「雰囲気大事だろ。全員浴衣な」
しかし悟の鶴の一言で、私たちは五条家の広大な屋敷に招かれた。歴史を感じさせる重厚な門、静謐な庭園。これで分家というのだから、本家は一体どんなスケールなのか恐ろしくなった。
さらに着付けまで用意してくれた彼の特別な世界に、私は場違いな緊張で指先を震わせていた。
着付けを終え、夕暮れの庭に出る。
そこにいたのは、いつもとは違う、けれど誰よりも見慣れた背中だった。
黒地の浴衣に身を包んだ傑。長い黒髪をいつもより低い位置でまとめ、涼やかな目元を細める姿は、驚くほど和の装いに馴染んでいた。
(いつもの、10倍くらい……かっこいい)
「……唯の浴衣姿、久しぶりだな」
目が合った瞬間、心臓が跳ねた。
幼い頃、地元のお祭りで手を繋いで歩いたあの日とは、全く違う意味を持ってその言葉が響く。
「似合う、かな」
「あぁ。よく似合っているよ」
傑の瞳が、熱を帯びて私を射抜く。まるで世界に二人きり取り残されたかのように、周囲の音がすっと遠のいていく。
「見とれてんじゃねーの」と茶化す悟の声も、今は遠い雑音のようだった。
────────
お祭り会場は、人の波と熱気に包まれていた。
前に私と硝子、後ろに傑と悟。
大きな二人に護られながら、私たちは屋台を巡った。
「あっかき氷食べたい」
「いいね」
「そしたら、ジャン負けが奢りにしよーぜ」
「あり」
結局負けたのは傑だった。文句を言いながらも全員分を奢ってくれた。私の選んだレモン味の氷は、胸の奥の甘酸っぱさとよく似た味がした。
かき氷で舌を染めて笑い合い、射的では傑と悟が本気を出しすぎて店主を困らせる。
そんな、普通の高校生のような時間が、あまりに愛おしくて、ずっと続けばいいのにと願わずにはいられなかった。
やがて花火の開始時間が迫り、私たちは混雑を避けて高専の屋上へ向かうことに。
初めて入る高専は、まるで立派な神社仏閣のようだった。普段見慣れない景色にキョロキョロと視線を彷徨わせていると、ふと視界の端にトイレが映る。花火が始まる前に一応行っておこう。
「ごめん、トイレ寄ってもいい?」
「いいよ、私が待ってるから悟たちは先に屋上に行っててくれ」
「おー、遅れんなよ」
そう言って悟と硝子は先に屋上に向かった。私もササッとトイレを済ませ、外で待っている傑に声をかける。
「お待たせ」
「ああ、それじゃあ行こうか」
ふと、トイレで考えていた我儘が頭をよぎる。ダメ元で、軽い冗談のつもりで、口を開いた。
「……あのさ、花火までもう少し時間あるし傑の部屋見てみたいなー、なんて」
「別に構わないよ」
「もちろんダメならダメで……えっ、いいの?」
「大して面白くもないけど」
意外なほどあっさりと了承され、傑の部屋へと向かう。
行き慣れた地元の家とは違う今の彼の部屋に入るのだと思うと、内心のドキドキはピークに達していた。
「ここだよ」
開け放たれた扉から覗く室内は、驚くほど整然としていた。
昔から変わらない無駄のない美しさ。けれどそこには、彼が眠り、目覚め、日常を重ねている今の生活の気配が満ちている。
男の子の部屋という完全な密室に、妙な緊張感がじわじわとこみ上げてくる。
「傑の部屋っぽいね。無駄に綺麗」
「無駄とはなんだよ、褒めてるのかい?」
「褒めてる褒めてる」
そんな軽口を叩きながら、ベッドの端に並んで腰を下ろす。
触れそうで触れない、絶妙な距離。
「見たいものは見れた?」
「うん、ありがとう。中々入られないから記念になった」
「そうだね、関係者以外入れたのバレると怒られるしね」
「そっか、今悪いことしてるね私たち」
少し悪戯っぽく微笑むと、傑は目を細めて優しく笑い返してくれた。その表情に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「……そろそろ、行こっか」
これ以上の胸の高鳴りに耐えきれず、立ち上がろうとした――その時だった。
履き慣れない草履が床に滑り、姿勢が大きく崩れる。
「……っ」
倒れる、と覚悟して目を瞑った瞬間。
傑の長い指先が私の腕を強く引き寄せた。勢い余って、そのまま彼の胸の中へと飛び込んでしまう。
薄い浴衣越しに伝わる、厚い胸板の感触と、少し高い体温。彼が一人の男であるという現実が、逃げ場のない距離で突きつけられる。
「ご、ごめん……」
慌てて身体を離そうとした瞬間、私の背中に回された傑の腕に、ぐっと力がこもった。
「す、傑……?」
「……すまない。もう少しだけ、このままで」
耳元で響く、低く掠れた声。
抱きしめられている。そう認識した途端、私の心臓は壊れそうなほど大きな音を立て始めた。
けれど、近くで聴こえる傑の鼓動は、驚くほど穏やかだった。
どうして、離してくれないの?
今、どんな顔をして私を抱きしめているの?
静寂の中に、私たちの体温だけが溶けていく。
1分、あるいは永遠のような時間の後、着信音が静寂を切り裂いた。
「……行こうか」
傑は深く短い溜息をつき、何事もなかったかのように腕を解いた。先に歩き出す彼の背中は、月光に照らされてどこか遠い。
さっきの熱は、夢だったのだろうか。
聞きたい言葉を飲み込んで、私は彼を追った。
「たーまやーー!」
「かーぎやーー!」
屋上から見上げる花火は、夜空を埋め尽くすほどに鮮やかだった。
「来年も、ここで見ようぜ」という悟の無邪気な声が、眩しく響く。
光が消えては生まれる夏の夜空。
けれど、私の記憶に深く刻まれたのは、一瞬だけ触れた、彼のあの穏やかな鼓動だった。
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さよなら日常
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