怖い人



世界が普通と違うのだと知ったのは、確か3歳の頃だった。
母に連れられて行った病院の待合室。その片隅の薄暗い影に、粘つきねじ曲がった異形の怪物が這いずっていた。幼い私は恐怖のまま母の服の裾を引っ張り、あの隅っこに何かいるのだと必死に訴えた。だが、返ってきたのは呆れたような苦笑いだけ。

「大丈夫、気のせいよ」

その言葉を、私は心の底から信じたかった。しかし、祈りも虚しく、それらは日常の隙間に当たり前のように姿を現し始めた。放課後の静まり返った廊下、人が密集する駅のホーム、街灯の届かない路地裏。どこにでも、それはいた。
父も、母も、クラスの友達も、誰も私が見ているものを信じてはくれなかった。いつしか私は「霊感がある変な子」「少し不気味な子」として遠巻きにされるようになり、私は私を守るために、目を開けたまま何も見えないふりをする術を覚えた。普通になりたかった。みんなと同じ景色を見て、笑っていたかった。

――けれど、私には小さな秘密があった。
私には力があったのだ。指南書があったわけでも、誰かに教わったわけでもない。ただ、幼い頃から頭の中に浮かんできた不鮮明なイメージをそのまま手から放つと、あの不気味な怪物――呪霊を祓うことができた。
ある日、重だるそうに肩を叩いていた友達の背後についていた薄暗い影を、私はこっそり祓った。 「あれ? なんか急に体が軽くなった!」 と嬉しそうにはしゃぐ友達の顔を見て、喉まで出かかった言葉を飲み込む。

『それ、私がやったんだよ』

そんなこと、口が裂けても言えるはずがなかった。変人だと思われたくはない。けれど、人知れず誰かの役に立てているというささやかな誇りが、孤独な私の胸を少しだけ温めてくれた。だから私は、自分を偽りながら、一人きりで暗闇の異形を狩り続けた。

そんな歪な日常は、突然終わりを告げた。
黒いスーツを身に纏った厳格な雰囲気を漂わせる大人が家にやって来て、私は言葉を失った。彼は私をまっすぐに見つめ、東京都立呪術高等専門学校への入学を打診してきたのだ。

「お嬢さんには素晴らしい才能がある。その力で、多くの人々を救うことができる」

生まれて初めて、私の歪みが、努力が、存在が認められた瞬間だった。胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。けれど、何も知らなかった両親は青ざめ、狼狽した声を上げた。

「呪術師だなんて……そんな危険な仕事なんでしょう!?」
「私たちはね、唯に普通に幸せになってほしいの。そんな怪しげな場所に行かせられない」

二人がどれほど私を愛し、心配してくれているかは痛いほど分かっていた。その温もりがありがたいからこそ、胸が痛む。
――けれど。 これからもずっと自分の目を疑い、自分を偽り、裏でコソコソしながら生きていく……そんな人生に、私はもう耐えられなかった。
私は両親の反対を押し切り、家を出ることを決意した。

「……遠すぎる」

溜め息とともに吐き出した言葉が、静かな山道に吸い込まれていく。 東京の学校と聞いて、勝手に高層ビルが立ち並ぶ華やかな都会を想像していた私の前に立ちはだかったのは、深い緑に覆われた辺境の山奥だった。ネットで調べた地図を頼りに進んだものの見事に迷子になり、東京に着いてからすでに三時間が経過している。15歳の少女が1人で辿り着くには、あまりに過酷な道のりだった。
ようやく視界が開けた先に広がっていたのは、高校というよりは神社か寺院のような、古風で重厚な建造物の群れだった。あまりの威圧感に、本当にここで合っているのか、勝手に足を踏み入れていいものかと気押されていると、唐突に頭上から声が降ってきた。

「何してんの?」
「ひっ……!」

跳ね上がる心臓を押さえながら振り向くと、そこには見上げるほどの男が立っていた。身長は2メートル近くあるだろうか。真っ白な髪に、目元を覆う怪しげなサングラス。どこからどう見ても不審者そのものである。
あまりの威圧感に引きつりながらも、私は引きつった笑みを浮かべて絞り出した。

「……えっと、あの。今日からこの学校に通う者なんですけど、勝手に入っていいのか分からなくて……」
「あー、お前がもう1人の1年ね。先生待ってたし、早く行った方がいいよ」

男はヒラヒラと手を振ると、私の横を無造歩に通り過ぎ、敷地の奥へと歩き出した。
(先生……? ということは、この人も生徒なのかな……)
案内してくれる流れなのだと勝手に解釈し、安堵して彼の後ろをトボトボとついていく。すると、男はうっとうしそうに足を止め、振り返って私を見下ろした。

「何でついてくんの?」
「えっ……あ、案内してくれるのかなって……」
「何で俺がそんなことしなきゃいけないんだよ。自分で場所くらい確認しろよ」
「それは……そうなんですけど……」

職員室へ来るようにとは言われていた。けれど、広大な敷地に立ち並ぶ建物のどれが何なのか、右も左も分からない。たまたま出会った同世代らしき人物に縋りたくなるのは当然の心理だと思うのだが、この男には一切の慈悲もないらしい。
困惑と気まずさで言葉を詰まらせ、視線を地面に落としていると、頭上からこれ見よがしに大きな溜め息が降ってきた。

「……はぁー。分かった分かった、着いてきなよ」

乱暴に白髪をガシガシと掻きむしり、心底面倒くさそうな仕草を見せる。それでも一応は前を歩き出してくれたので、私は慌ててその背中を追った。
私の地元の人はみんな親切で、困っていれば笑顔で手を差し伸べてくれる温かい人ばかりだった。けれど、この東京で初めて出会った男は、それまで出会ってきた誰とも違っていた。案内をしてくれてはいるが、そこにあるのは優しさや親切心ではなく、「まとわりつく奴を早く追い払いたい」という不機嫌なウザがりだけだ。
東京に来てまだ数時間だというのに、早くも強烈なホームシックが押し寄せてくる。

「ほら、着いたよ」
「あ……ありがとうございます」

案内された重厚な扉を開けると、そこには数人の大人が座っていた。その中でも一際体格が良く、強面な男性が私に視線をやる。

「遅かったな。道に迷ったか」
「すみません……慣れていなくて、時間がかかってしまいました」
「ん? 悟がここまで連れてきてくれたのか。珍しいこともあるもんだな」
「まあ。んじゃ、俺戻るんでー」

悟と呼ばれた白髪の男は、ひらひらと手を振り返すと、興味なさそうに部屋を去っていった。圧迫感と冷たい態度にビクビクしていたので、ようやく離れられて心底ホッとする。できれば、今後の学校生活でも関わらずに済むといいのだが。
安堵の胸を撫で下ろしたのも束の間、目の前の先生から容赦のない事実が告げられた。

「悟も君と同じ1年だ。明日には他の2人も揃うから、教室で自己紹介してもらう」
「えっ……」

思考がフリーズする。 同じ1年。つまり、同級生。 これから四年間、あの最悪な態度を取ってきた男と、同じ時間を過ごすということ。
「関わりたくない」という切実な願いは、叶う前にあっけなく打ち砕かれた。この小さな高専という環境で、しかも全寮制。関わらずに生きるなど、どう考えても不可能だった。
その後、先生が話してくれた学校のシステムや規則の説明は、まったく頭に入ってこなかった。ただただ、これからの学生生活に対する絶望感で胸がいっぱいだ。

これが、私と五条悟の、最悪な出会いだった。