名前


夜の静寂が広がる高専の敷地内。久々に戻ってきたこの空気に息を吐き出す。

「もう体は治ったのかい?」
「うん、元気ピンピン!」

隣を走る傑に笑いかけた。先日負った怪我のせいで、しばらくは療養と体力回復に専念していたけれど、ようやく全快。校内で見かけた傑を誘って、こうして夜のランニングに出ていたのだ。 ほんの少し休んだだけなのに、驚くほど体が重い。……また今日から鍛え直さないとな。

「そう言えばさ、怪我して目が覚めたあと、五条くんが来てくれたんやけど……去り際に『ありがと』って言われて」
「……」
「その前までは、私が迷惑かけたことに怒っとったんにさ。急に感謝されるから、一体何に対してやったんやろーって、不思議で」

自嘲気味に呟いた私に、傑は並走しながら柔らかく目を細めた。

「……まあ、悟は不器用なやつだからね」
「え、傑は何に対しての感謝か分かったん?」
「まあね。そもそも、その件に関しては全く怒ってないと思うよ。むしろ凄く心配してたんだ。唯が死ぬんじゃないかって」
「あの五条くんが……心配?」

思わず足が緩みそうになる。他人のことなんて露ほども興味がなさそうな彼が、私を心配するなんて到底信じられなかった。仲の良い傑だからこそ見せる、彼の別の顔なのだろうか。

「ああ。わざわざ私に電話をかけてきたくらいだよ。それに、どうでもいい相手なら、呪術の訓練なんて付き合わないさ」
「……そっか。じゃあ、ちょっと親しいクラスメイトくらいにはなれたんかな」
「『ちょっと』なのか『親しい』なのか、よく分からない表現だな」

傑が楽しそうにフッと喉を鳴らして笑った。
目標の5周を無事に走り終え、2人で寮の建物へと足を踏み入れる。ひんやりとした内廊下に足音が響くなか、傑が何かを思い出したように「あ」と声を上げた。

「ところで、何で悟のことは『五条くん』のままなんだい?」
「呼び方? んーーまあ、最初は怖かったし……しばらく経っても距離があったから、そのまま呼んどるって感じかなぁ。傑とか硝子は、高専に入ってすぐ仲良くなれたから呼び捨てやけど」
「そうか。いやね、悟が『あいつ、俺だけ未だに名字呼びなんだけど』って気にしてたからさ。もしよければ、今度下の名前で呼んでみてくれないかい」
「んー、分かった」

そんな他愛のない会話をしているうちに階段の前まで来てしまい、私たちは「おやすみ」と軽く手を振って別れた。
名前の呼び方、か。 あの五条くんが、そんな細かいことを気にしていたなんて少し意外だった。 ……そう言えば。呪霊にやられたあの日、彼が初めて私の名前を呼んでくれたっけ。結局あの日以来、そこまで会話もしていなかったから、あの切迫した声で呼ばれた1回きりだ。

(悟、か……)
頭の中で何度も反芻しながら静かな廊下を進んでいると、自販機の前に佇む背の高い影が目に入った。真っ白な髪。五条くんだ。

「ごじょ……」

声をかけようと口を開きかけた瞬間、さっき傑に言われた言葉が脳裏をよぎる。息を呑み、キュッと拳を握り直して——勢い任せに叫んでいた。

「さ、悟くん!」
「うおっ!?」

静寂を破る私の声に、彼は肩を跳ね上がらせた。そのまま勢い余って、バチィンと自販機のボタンを強く押し込んでしまう。ガタコン、と重い缶の落ちる音が廊下に響いた。

「きゅ、急に話しかけんなよ! びっくりすんだろ!」
「ご、ごめん! 見かけたから、つい……」
「あーー最悪。俺、コーヒー飲めねーのに間違って買っちゃったじゃん……」

彼の手元にあるのは、青いデザインの微糖缶コーヒー。完全に私のせいで無駄な買い物をさせてしまったと申し訳なくなっていると、彼が無雑作にその缶をこちらへ突き出してきた。

「やるよ」
「えっ」
「たまに飲んでるだろ。眠気覚ましに」
「……あ」

私が教室で課題をするとき、よくそれを飲んでいるのを覚えていたのだろうか。まさか自分の行動が見られていたなんて思わず、目を丸くしながらも差し出された缶を受け取る。まだじんわりと温かい。

「あ、ありがと……」

お礼を言う私から、彼はわずかに視線を逸らした。首筋をポリポリと掻きながら、ボソッと小さく呟く。

「あと……」
「ん?」
「……名前のくん付け、いらねーから。なんかキモい」
「……。じゃあ、……悟?」
「…………おう」

返事をした彼の耳たぶが、心なしかほんのりと赤くなっている気がした。 それにつられて、なんだか私まで顔が熱くなってくる。傑の名前を呼ぶときは何とも思わないのに、「悟」と口にするだけで、胸の奥がキュッと痒くなるような感覚。

「……じゃ、また明日な」
「あ、うん。おやすみ」

結局、悟は自分の飲み物を買い直すこともせず、ポケットに両手を突っ込んだまま背を向けて去っていった。
私は手元に残された微糖のコーヒーを両手でしっかりと握りしめ、静かな廊下に消えていく彼の後ろ姿を、ただじっと見送っていた。