夕暮れの教室


夕暮れのオレンジ色が、静まり返った教室を優しく染め上げていた。
窓際に差し込む柔らかい光の中で、私はひとり音楽に耳を傾けながら、ノートを開いている。

呪術高専はただ術式を磨くだけの場所ではない。一般教養の授業も用意されているのは、もしも将来、呪術師以外の道を歩みたくなったときのための大人の配慮なのだろう。今のところ私がこの道から外れる予定はないけれど、学びが無駄になることはない。数学や物理、化学のような理系科目は、術式の構造や理論を解き明かす上で想像以上に大きな助けになるからだ。
今取り組んでいるのは、日本史の課題。過去に生きた人々の足跡を辿り、「この時、どんな思いで時代を駆け抜けたのだろう」と心情を想像するのは案外楽しい。硝子たちはとっくに課題を終わらせて寮へ戻ってしまったし、私も自分の分は解き終えている。けれど、この放課後の静けさと夕暮れの雰囲気が好きで、ノートを繰りながら復習を続けていた。

「ふっふーん……」

お気に入りのメロディを小さく鼻歌にのせ、ペンをスラスラと走らせる。一人の時間を満喫していた、まさにその時だった。

ガラッ――

静寂を割って、教室の扉が大きく開く。
驚いて視線を向けると、そこには先に帰ったはずの悟が立っていた。呑気な鼻歌を聞かれてしまったかもしれないと思うと、急に照れくささがこみ上げてくる。

「さ、悟、どしたん? 忘れ物?」
「別に。暇だし遊びに来た」

短く答えると、彼は私の隣にあった椅子を引き寄せ、机を挟んだ正面に腰を下ろした。

「遊びにって……私、勉強中なんやけど……」
「気にすんなって。見てるだけだから」

悟は机に頬杖をつき、上から覗き込むように私のノートを眺め始めた。
「見てるだけ」と言われても、至近距離に人がいるだけで集中力が削がれるのは目に見えている。けれど、帰れと言っても素直に聞くような相手ではない。諦めてそのまま作業を続けることにした。
ふと、ノートの手を止めて先日彼に渡した誕生日プレゼントのことを思い出す。

「そいえば、誕プレのストラップ、どっかにつけたん?」
「あぁ、クマのやつな。携帯に付けてる」

「ほら」とポケットから放り出すように提示された携帯電話。その端には、確かにリラックマのストラップが揺れていた。
以前、硝子の誕生日パーティーを開いた際、私の部屋に置いてあったリラックマのぬいぐるみに悟が興味を示していたことがあった。そこから硝子や傑に相談し、リラックマのストラップという結論に至ったのだ。提案したとき、二人はなぜか可笑しそうに笑っていたけれど。
そして先日、少し遅れて開催した悟の誕生日会で大量の甘いお菓子と一緒にこのストラップを贈ったのだが、渡した瞬間の彼の反応はどこか微妙だった。だからずっと、不要になって捨てられていないか気になっていたのだ。

「付けてくれたん! 良かったー。なんか微妙そうな反応やったし、要らんって思われたらどうしようって思っとった」
「微妙っつーか……このキャラ、お前が好きなやつだろ。なんで俺にプレゼントすんのかと思って」
「え、だって前、悟が私の部屋のリラックマ見て『このキャラ好きなん?』って聞いてきたから。悟も興味湧いたんかと思って……もしかして違った?」
「……別に。このキャラ自体は嫌いじゃねーよ。プレゼントも嬉しかったし」

どこか決まり悪そうに視線を外しながら話す悟。その横顔を見て、胸のつかえがすっと下りていくのが分かった。押し売りになっていなかったようで良かった。

「なら良かった! これを機にリラックマ集め、一緒にする?」
「そんなに沢山いらねーよ。俺はこいつで充分」
「えー、残念」
「気が向いたらな。……ってか、さっき鼻歌で歌ってた曲なに?」
「えっ! 聞かれてたんか……」
「そりゃ、結構な音量で歌ってたからな」

懸念していた通り、ばっちり聞かれていたらしい。観念して恥ずかしさを捨てると、私は左耳のイヤホンを外し、悟の方へと差し出した。

「多分曲名言っても分からんやろうから、今流すし付けて」

悟は少し戸惑ったように手伸ばし、イヤホンを受け取ると左耳に装着した。私は、端末の再生ボタンをタップする。
柔らかなイントロが、二人の間に流れ始める。

「……初めて聞いた」
「やよね。私もたまたま知って良い曲やったからよく聞いとるげん」
「確かに、何か耳に残るな」
「ね!そうや……」

弾んだ声で顔を上げた瞬間、息が止まった。
サングラスの奥にある蒼い瞳と、至近距離でバチッと視線が交差する。 1つのイヤホンを共有しているせいで、二人を隔てる距離はわずか30センチほど。以前、ピアスを開けてもらったときのように彼が目を逸らすことはなく、まっすぐに私を見つめ返してくる。
その真剣な眼差しに、胸がドクンと嫌なほど大きく高鳴った。何か喋らなければと焦る頭とは裏腹に言葉が出てこないでいると、悟が静かに口を開いた。

「……俺さ、自分が守られるなんてこと、これまでなくてさ。高専に入って、唯一傑が隣に並んで一緒に戦えるくらいだった。そんな時に、お前が入学してきて……対して力もないのに俺を庇って怪我して。バカだろって思ってムカついたし、余計なことすんなとも思った」
「……そんなこともありましたね」
「……そんで文句を言いに行ったら、『守らなきゃって思った』なんて言ってきて。正直拍子抜けしたわけ。俺より弱くて一回りも小さいヤツが俺を守るなんて、できるわけないだろって。……でも――」

一息つき、悟は言葉を紡ぐ。

「正直、嬉しかった。損得勘定抜きで手放しで俺を守ろうとしてくれるやつがいてくれて。……身体を張って守ってくれてありがとな」

そう言って浮かべたのは、普段の不遜な彼からは想像もつかないほど、穏やかで優しい笑みだった。
あの日、医務室を出ていく彼の背中から投げかけられた「ありがと」の意味。その本当の理由が、長い時間を経て今ようやく胸に届く。私の必死だった思いが少しでも彼に届いていたのだと知り、胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていく。

「……ってことで、唯が俺を守れるくらい強くなってもらわねーとな」
「……うん、また訓練して頑張るわ。悟も時間ある時は、一緒に見てくれると嬉しい」
「しょーがねーな。その代わりジュース奢れよ」
「えーー、悟のが報酬多く貰ってるやん……」
「そうゆうのは気持ちが大事ってんだろ。感謝の気持ちを見せてもらわなきゃな」
「……分かった」

年相応にいたずらっぽく笑う彼を見つめながら、私は自分の胸の奥で、小さな波紋が広がるのを感じていた。
このざわめきの正体に自分が気づくのは、まだもう少し先の話だ。