右手の熱


久しぶりの遠出での任務。そして、同行するのは悟だ。
これまでにも2人で任務に就くことは何度かあったが、新幹線に揺られて遠方へ向かうのは今回が初めてだった。あくまで仕事とはいえ、車窓を流れる見知らぬ景色を眺めていると、どこか旅行のような小さな高揚感が胸を突く。

「……何笑ってんの」
「……別にぃ」

気づけば口元がゆるんでいたらしい。隣からの呆れたような視線に気づき、誤魔化すように外へ目をやった。今日も自分にできることを精一杯やろう、と心の中で小さく喝を入れる。
やがて新幹線は目的地近くのターミナル駅へ滑り込み、そこからは地方鉄道へ乗り換える手筈になっていた。下調べは万全だ。私は自信満々に先頭を歩き、ホームに滑り込んできた電車へと悟を先導した。

しかし——。
乗車してから1時間ほどが過ぎた頃だろうか。10駅目で着くはずの目的地に対し、7駅目を過ぎても一向に予習した記憶のない駅名ばかりがアナウンスされる。胸を掠めた胸騒ぎに耐えかね、慌てて携帯で路線図を開き直した瞬間、私は己の過ちに絶望することになった。

「……悟、ごめん」
「どうした?」
「電車、逆方面乗り込んでしまったかも」
「……は?」

隣に座る悟が、ぽかんと口を開ける。 本来乗り込むべきだったのは、反対側の2番ホームから出る電車だったのだ。私たちがホームへ降り立ったとき、ちょうど1番ホームの電車が発車ベルを鳴らしており、焦るあまりろくに確認もせず飛び乗ってしまったらしい。しかも都心とは違い、ここは1時間に1本しか電車が来ない田舎路線だ。
私たちはひとまず8駅目で途中下車し、折り返しの電車を待つ羽目になった。

「……まじでごめん」
「……あーあ。今日中に帰るつもりだったけど、無理だなこれ」
「やよね……泊まるとこ、どうしよう」
「とりあえず任務終わってから考えればいいんじゃね。俺、現地で待ってる窓の奴に連絡入れとくわ」

ベンチから立ち上がった悟は、耳元に携帯を当てながら1人プラットホームの端へと歩いていく。その背中を見送りながら、私は押しつぶされそうなほどの罪悪感に苛まれていた。
最近は任務も順調にいっていたのに、よりによって一番大事な場面でやらかしてしまった。もともと方向音痴で電車も苦手だからこそ、念入りに下調べをしたはずだったのに。焦りに任せた行動のせいで、全てが台無しだ。さすがの悟も、呆れて物も言えないだろう。
膝の上の拳を固く握りしめ、下を向いて落ち込んでいると、ひんやりとした冷たさが突如頬を叩いた。

「いつまで落ち込んでんだよ。やっちまったもんはしょうがねーだろ。俺も確認してなかったし。くよくよすんな」

いつの間にか電話を終えて戻ってきた悟が、私の頬にお茶のペットボトルを押し当てていたのだ。

「……ごめん、ありがとう。この失敗、何とか任務で取り戻すわ」
「っつっても、1級呪霊もいんだからお前1人じゃ無理だけどな」
「……雑魚呪霊、たくさん祓います」
「そうだな、何もしねぇといいとこ無しだし」
「うっ……」

相変わらず口を開けば意地悪ばかりだ。けれど、それが彼なりの不器用な気遣いなのだと分かってしまう。私がこれ以上自分を責めないように、あえて軽口を叩いてくれているのだ。きっと昔の悟なら、あからさまに不機嫌になって口すら聞いてくれなかっただろう。
それから電車が来るまでの30分間、私たちはベンチに並んで座り、他愛のない雑談をして過ごした。ようやくやってきた電車に乗り込み、目的地の神社へ足を踏み入れた頃には、空はすでに群青色から闇へと染まり、刻限は19時を過ぎていた。

「んじゃ、パパっと片付けよーぜ」
「うん!」

境内は予想通り、鬱蒼とした気配とともに無数の低級呪霊が蠢いていた。そしてその奥の社殿付近には、重苦しい威圧感を放つ1級呪霊が3体。
手筈通り、私が広範囲に散らばる低級呪霊を誘い込み、一気に結界を張って捉える。特訓の成果もあり、今の私は半径3メートルほどの結界を展開できるようになっていた。囲っては祓い、また囲っては祓う。
その間、悟は社殿の3体を相手に無下限呪術を解放していた。1級3体を相手にしながらも、毛ほども窮地を感じさせない洗練された立ち回り。やはりこの人は桁が違うのだと、改めて息を飲む。
格闘すること30分、境内に満ちていた瘴気は完全に霧散した。

「終わったな」
「ね、お疲れ様」
「前より術式使うの、だいぶ早くなったじゃん」
「え、ほんと!? 嬉しい——!」
「まあ、まだ2級には及ばねぇけどな」
「そうやよね……なんとか2年生の間には2級になりたいわぁ」

安堵の息を漏らしながら神社を後にしたが、辺りを見回して私たちは再び呆然とした。
本当に、何もない。
私の地元である金沢の10分の1も栄えていないのではないだろうか。街灯すら殆どない暗闇の中、とりあえず駅前まで戻って宿を探そうと足を動かしたが、結果は散々たるものだった。

「まじで何もないやん」
「やべーな、コンビニすら見つかんねぇ」

ホテルはおろか、人に尋ねようにも人影すらない。ターミナル駅まで引き返そうにも、この地域の始発・終電の早さを甘く見ていた。既に本日分の電車は全て終了している。疲弊した体に鞭を打ち、暗闇の街を30分ほど彷徨って、私たちはようやく1軒の古びた民宿へと辿り着いた。

「いらっしゃい。こんな遅くに、学生さんがどうしたの」
「……すみません、保護者はいないんですけど、課外授業でこの辺に来てて。終電が無くなっちゃったんで、一泊させてもらえないですか」
「あらあら、駆け落ちとかじゃないんね?」
「それは絶対に無いです」

出迎えてくれた気さくな女将さんは、怪しみもせず身元不明の高校生2人を受け入れてくれた。昔はこの辺りも観光客で賑わっていたらしいが、ここ最近は急に気味が悪くなったと客足が途絶えていたらしい。おそらく、あの神社に巣食っていた呪霊の仕業だろう。これからはまた、元の穏やかな町に戻るはずだ。
食堂で温かい夕食をご馳走になり、お風呂を借りて、用意されていた部屋着の浴衣に袖を通す。指定された客室へと戻ると、悟はすでに敷かれた布団の上に転がっていた。

「悟、もう戻っとったんね」
「……おう」

どこか歯切れの悪い返事。やはり慣れない民宿で、移動の疲れが出ているのだろうか。

「今日は振り回してしまってごめんね。疲れたやろうし、すぐ電気消すわ」
「……別に、急がなくていいから」

相変わらずこちらを見ようともせず、素っ気なく天井を仰ぐ悟。悪いことをしてしまったと胸を痛めつつ、明日の荷物をまとめようとした時だった。
——ふと、冷静になって気付く。
年頃の男の子と、2人きりでのお泊まり。
今まで仕事の疲れと焦りで思考が麻痺していたが、いくら布団が2つ離して敷かれているとはいえ、年頃の男女が同室で夜を明かすのは流すがにマズいのではないか。

「……っ! やっぱ、男女同室ってのは良くないね! 私、女将さんに言って他の部屋空いてないか聞いてくる!」
「それなら俺が別の部屋行くし。お前はこの部屋で寝ろよ」
「いや、悟、もう寝ようとしてたやん! 私がミスって泊まることになったんやし、私が行くって!」

「俺が」「私が」と押し問答を繰り広げた、その時だった。
カツン、と外で鈍い音が響いたかと思うと——。
——ドカーンッ!

「ひっ……!」

地響きのような雷鳴とともに、視界が唐突に漆黒へと染まった。 落雷でブレーカーが落ちたのだと頭では理解できても、静まり返った木造建築の中で不意に訪れた暗闇は、恐怖心を煽るのに十分すぎた。あわてて闇雲に手を伸ばし、視界の効かない空間で彼の存在を探す。

「悟……っ、どこおるん!」
「おい、どこ行くんだよ!」

暗闇を割る声と同時に、右手に熱が伝わる。悟が、迷わず私の手を握りしめてくれたのだ。指先から伝わる圧倒的な存在感と体温に、パニックを起こしかけていた鼓動が徐々に落ち着きを取り戻していく。

「……良かった……なんも見えんから、怖くなって……」
「……ったく。ウロウロすんな、転ぶだろ」
「……うん」

目が慣れていないため、彼の姿は見えない。けれど、大きくて骨張った掌から伝わる強い熱が、彼がすぐ側にいてくれるのだと教えてくれる。
男の子にこんな風に手を握られたのは、生まれて初めてだった。けれど、決して不快じゃない。むしろ、この熱をずっと感じていたいと思ってしまう自分に戸惑う。私は今、旅先のアクシデントという熱に浮かされているのだろうか。

少しずつ闇に目が慣れてくると、目の前に座り込む悟の顔が輪郭を結んだ。 薄闇の中でもなお、発光するように美しい蒼の瞳。じっと見つめ返していると、その深い蒼に吸い込まれてしまいそうになる。

「……なぁ、唯」

掠れた声で名前を呼ばれ、私の手を握る悟の力が強くなる。

「俺さ——」

彼が言葉を紡ぎかけた、その瞬間。
バチッと音を立てて蛍光灯が点灯し、部屋全体が眩い光に包まれた。 現実へと引き戻された途端、猛烈な羞恥心が背筋を駆け抜け、私たちは弾かれたように互いの手を離した。

「ごめんねぇ、雷でブレーカーが落ちちゃって……。あら、何かあったの?」

心配して駆け込んできた女将さんが目を丸くする。それもそのはず、私の顔はきっと今、茹で上がったタコのように真っ赤になっているはずだから。私はあからさまに顔を背け、しどろもどろに首を振った。

「な、何でもないです……!」

女将さんは不思議そうに首をかしげながらも、「気をつけてね」と言い残して階下へ戻っていった。部屋に残されたのは、気まずい静寂だけだ。

「……とりあえず、今日はこのまま寝るか」
「……そやね」

気まずさを隠すように電気を消し、私たちはそれぞれの布団へと潜り込んだ。 背を向け合った暗闇の中、悟に握られていた右手の熱だけが、いつまでも消えずに残っていた。