安心できる存在
朝起きた瞬間から、体が鉛のように重かった。 ガンガンと鳴り響く頭痛をなだめながら、それでも「学校に行かなきゃ」と自分に言い聞かせてベッドから体を起こす。制服に袖を通し、重い足取りで教室へと向かった。
今日も悟と傑は任務で不在だ。 特に悟とは、もう1週間以上も顔を合わせていない。近々特級に昇格するだろうと噂されるほどの強さを持つ彼。同じクラスメイトとして入学したはずなのに、気づけば術師としての実力は雲泥の差がついていた。
「おはよー……って、なにその顔」
教室のドアを開けるやいなや、硝子が露骨に眉をひそめて私を見た。
「おはよ、硝子……」
「ちょっと待って」
近付いてきた硝子が、ひんやりとした手のひらを私の額に当てる。次の瞬間、彼女は深いため息を吐いた。
「今日はもう帰りなよ。すっごい熱」
「え、嘘……」
「ほんと。よくこれで出てこれたね」
言われて自分の手でおでこに触れてみると、確かに焼けるように熱い。ただの寝不足と疲労だと思い込んでいたけれど、しっかりと熱を出していたらしい。 「硝子にうつしたら悪いし……」と大人しく引き返し、寮の自室に戻ることにした。
部屋に着き、パジャマに着替えてベッドに倒れ込む。 ゆっくりと目を閉じ、意識をまどろみに委ねようとした——その瞬間。
脳裏に、あの日の光景が鮮烈にフラッシュバックした。
鼻にこびりついて離れない、鉄くさい血の匂い。 闇の中から襲いかかってくる呪霊の恐ろしさ。 そして——最後に見せた、篝さんの笑顔。
「ッ……!」
弾かれたように跳ね起きる。荒い息が静かな部屋に響いた。
先日の任務以来、私は全く眠れなくなっていた。 二級昇格査定の任務自体は無事に完了し、晴れて二級昇格となった。けれど私は初めて、目の前で自分と同じ呪術師が命を落とす瞬間を目撃してしまったのだ。 これまでも人が亡くなった現場に立ち会ったことはあった。けれど、どこかで死を遠い出来事のように感じていたのかもしれない。
あの任務以来、猛烈な死の恐怖が私を支配している。 ——私もいつか、あんな風に呆気なく死ぬのだろうか。 それが怖くて、暗闇に目を閉じるのが怖くて、夜が来るたびに眠れなくなっていた。
「……早く寝て、治さんなんのに」
ポツリと漏れた言葉が、誰もいない部屋に虚しく消える。 体は限界を迎えているのに、目を瞑ると恐怖が押し寄せてくる。結局一刻も眠れぬまま、天井を眺め続けていた。
どのくらい時間が経っただろう。 窓の外が茜色に染まり始めた頃、コンコン、と部屋のドアがノックされた。 さっき硝子から「欲しいものある?」とメールが来ていたから、買ってきてくれたのだろうか。重い体を起こし、ドアを開ける。
「……え、悟……? なんで……」
そこに立っていたのは、任務に行っていたはずの悟だった。 少し乱れた髪に、手には薬局の袋を提げている。久しぶりに見るその姿に、張り詰めていた心が急激に解け、不覚にも涙腺が緩みそうになった。
「さっき任務から戻って、硝子に聞いた。これ頼んでたやつな。……体調は?」
「……ありがとう。朝よりだいぶ元気になったわ」
嘘だ。ちっとも良くなっていない。 けれど、連日の任務で疲れているであろう悟に迷惑をかけたくなくて、必死に作り笑いを浮かべて強がってみせる。
「そうか。じゃ、無理させんのも良くねーし、俺行くわ」
弱っている私を気遣い、差し入れだけを渡して背を向けようとする悟。 その瞬間——私の右手が、思考より先に動いていた。
ぎゅっと、彼の制服の袖をつかむ。
「……どうした?」
振り向いた悟に、ハッと正気に戻る。私は慌ててパッと手を離し、取り繕うように手を振った。
「いや! ええと、ごめん、何でもない!」
私、何やってるんだろう。 けれど、明らかに動揺している私の様子を、悟は見逃さなかった。じっと私を射抜くように見つめてくる。気まずさに耐えかねて視線を泳がせていると、頭上から盛大なため息が降ってきた。
「お前……最近、まともに寝てないだろ」
「えっ、そんなこと、ないです……」
「呪力もぐちゃぐちゃ、顔も老け込んでて、ひっどい状態になってる」
「嘘!? 老けた!?」
「あぁ、まじで」
あまりのショックに両手で顔を覆い、くるりと後ろを向いた。 好きな人に「老け込んだ」なんて言われるなんて、最悪以外の何物でもない。あまりの落ち込みように静まり返っていると、背後から拍子抜けするほど優しい声が聞こえた。
「……何かあったんだろ。聞くから話してみ」
その柔らかい響きが心にじんわりと染み込んできて、もう拒むことなんてできなかった。
私は悟を部屋に招き入れ、悟は床のクッションに腰掛けた。私はベッドの端に腰を下ろす。買ってもらったお茶を一口飲み、少しずつ、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「この間行った任務でさ……一緒に行った人が、死んじゃってん」
「……二級昇格査定のやつか」
「そう。一級呪霊もおってね、篝さんが私を庇ってくれて……。篝さんがおらんかったら、私も死んどった」
言葉にして吐き出すと、あの瞬間の恐怖がフラッシュバックする。 自然と声がかすれ、膝の上の両手がガタガタと震え出した。
「……そっか。辛かったな」
「うん……。死ぬのが怖いって、初めて思った……。でも呪術師なんに、こんな甘ったれたこと言っとるなんて、ダメやよね」
自虐的に笑ってみせようとした。 けれど悟は茶化すことなく、静かに立ち上がると私に近づき、震えていた私の両手を包み込むように握りしめた。
「怖いのは普通。みんな思ってる」
低い、真っ直ぐな声。
「それでも唯は、呪術師を続けたいって思うんだろ? なら、その感情とは向き合うしかない」
彼の言葉が、胸の中に溜まっていた黒いモヤをゆっくりと溶かしていく。 トクトクと、重なった手のひらから悟の温もりが伝わってくる。……あぁ、なんだろう。凄く安心する。気づけば、あんなに止まらなかった手の震えが嘘みたいに収まっていた。
「……そうやね。ありがとう、悟。ちょっとスッキリした」
「おう。もう寝れそうか?」
「うーん、どうやろ……。あ……」
話しながら、ふと1つのワガママが頭をよぎった。 でも、これは流石に迷惑だろうか。言うべきか迷って視線を迷わせたけれど、意を決して口を開く。
「あのさ……もし嫌じゃなかったらなんやけど、私が眠るまで、手を握っててほしくて……」
「……手?」
「あ、無理なら全然大丈夫! さっき握ってもらった時、すごく安心できたから、眠りやすそうやなって……。でも話聞いてもらって楽になったし、気にしないで——」
「いいよ。握ってる」
「……え、いいん?」
「別に、手握るだけだろ。どうせ今日もうやる事ねーし」
悟は照れくさそうに吐き捨てると、「早く寝ろ」と私をベッドへと促した。 横になり、掛け布団から出した私の右手を、悟の左手がそっと包み込む。
あの花火大会の日以来に握った、悟の手。 あの時は心臓がうるさいくらいドキドキしていたけれど、今はただ、深い安心感に満たされていた。
「……ありがと、悟」
「早く寝て体調治せよ。また練習付き合ってやるから」
「うん。悟に追いつけるくらい、強くなりたいから……」
連日の寝不足と、熱と、そして何より悟がくれる圧倒的な安心感。 まぶたが急速に重くなり、私はものの数分で深い眠りへと落ちていった。 手のひらの温もりに守られながら、久しぶりに一度も怖い夢を見ることなく、朝まで熟睡することができた。
目が覚めたとき、部屋に悟の姿はなかった。 けれど机の上には、一枚の付箋が残されていた。
『また寝れなくなったら呼べよ』
殴り書きされたその文字に、彼の不器用で真っ直ぐな優しさが詰まっていて、私の心は朝の光よりも温かく満たされていた。