約束


12月24日。 クリスマスイブの午後は、単独任務の予定が入っていた。
そろそろ現場へ向かう補助監督の車に乗り込まなければならない時間だというのに、私は我儘を言って、高専の校門前で粘っていた。少しでもいい、ギリギリまで待ちたかった。どうしても、自分の口から彼に伝えたいことがあったから。

「……まだ、帰ってこんのかな」

白く吐き出した息が、冬の冷気の中に消えていく。 昨日まで続いていた長期任務が終わり、今日の午前に帰宅すると聞いていた。しかし、時計の針が12時を回ろうとしても、彼の姿は見当たらない。 諦めて事前にメールを入れておこうと携帯を取り出した、その時だった。
遠くから、見慣れた白髪の人物が歩いてくるのが視界に飛び込んできた。 迷う余地などなかった。私は携帯を握りしめたまま、彼に向かって駆け出していた。

「──悟っ!」

彼の目の前で足を止め、乱れた呼吸を整えながらまっすぐ見上げる。 ふと彼の首元に目をやると、プレゼントしたマフラーを巻き続けてくれていた。それだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように愛おしくなる。

「おかえりっ。任務、お疲れ様」
「……あぁ。唯はこれから任務?」
「うん、そうなんやけど……出かける前に、どうしても伝えたいことがあって」

意を決して、さらに一歩踏み出す。

「告白の返事したくて。今日の夜7時、高専の屋上に来てほしい」

ずっと引き延ばしてしまった、私なりの結論。 メールや電話ではなく、ちゃんと彼の目を見て伝えたい。だからこそ、今ここで約束を取り付けたかったのだ。 悟は一瞬だけ緊張したような面持ちを見せ、肩にかけていたカバンのストラップをぎゅっと握りしめると、「分かった」と静かに頷いてくれた。

「ありがと! それじゃあ、任務行ってくるね」
「おう。いってら」

背を向け、校門前に待機していた補助監督の車へと乗り込む。 ずっと待たせてしまった答え。だからこそ、自分の誤魔化しのない気持ちをすべてぶつけるんだ。 流れていく車窓の景色を眺めながら、私は今夜訪れるはずのその時に思いを馳せていた。

現場は郊外に佇む廃墟。依頼内容は呪霊の討伐で、推定階級は三級。 半日もかからず終わる程度の案件だ。これなら夜の約束にも余裕で間に合う。サクッと終わらせて高専へ帰ろう──そう自分に言い聞かせ、寂れた建物へと足を踏み入れかけた。
建物自体にさほど広さはなく、1階から2階へと順に探索を進めていく。やがて、目的の呪霊が姿を現した。 三級とはいえ、周りの壁や床にへばりついた血痕から、人を殺めていることは明白だった。

「……箱詰め」

足音を消して背後へ忍び寄り、即座に自身の術式で呪霊の周囲に結界を展開する。 そのまま圧殺すべく手を握り込もうとした──まさにその瞬間。

「……助けて、お姉ちゃん」

建物の奥から、消え入りそうな幼い声が響いた。 ハッと視線を走らせると、そこには3人の少年たちが身を縮めていた。1人は足を激しく負傷している。
まさかこんな場所に一般人が残されているとは思わず、一瞬だけ意識がそちらへ削がれてしまった。 ──その隙を、怪物は見逃さなかった。
呪霊が私の動揺を察知し、力任せに結界を砕く。それだけに留まらず、自らの皮膚や肉を内側から引き破り、異様な変貌を遂げ始めた。
空気が重く、冷たく変質する。 肌を刺すような高密度の呪力。間違いない。これまでは受胎の段階であり、今まさに目の前で孵化したのだ。一級呪霊に。
さっきまでの心の余裕は一瞬で吹き飛び、冷や汗が頬を伝う。 呪霊の凶眼が、完全に私をとらえていた。
(ダメや、考えろ……最優先はあの子供たちを逃がすこと!)

「箱詰め!!」

自身の限界である5枚の重複結界を瞬時に張り巡らせ、呪霊の足止めを図る。その隙に呪霊の背後へ回り込み、足を怪我した子を抱き上げた。 だが、すでに1枚目の結界がガラスのように割れ、2枚目にも亀裂が入っている。時間がなさすぎる。
私は無事な方の2人の少年に、切迫した声を投げかけた。

「私が逃げる時間を稼ぐから! この子を連れて、全力で外へ逃げて!!」
「っ、でもお姉ちゃんは……!」
「いいから行って! 外にスーツを着たお姉さんがいるから、一級がいたって伝えて!!」
「わ、分かった……!」

私の必死な表情に事態の異常さを察したのか、少年たちは頷くと、怪我をした子を両脇から支え、がむしゃらに階段を駆け下りていった。
残る結界はあと2枚。頼むから時間を稼いでくれと祈りながら、術式維持に全神経を注ぐ。 無事に玄関を潜り抜ける足音が聞こえた頃、最後の1枚にも無情なヒビが入った。
(お願い……お願いだから、あと少し……!)

──パリンッ!!

甲高い音を立てて結界が全壊すると同時に、遠くで玄関の扉が開く音が届いた。 良かった。あの子たちは、ちゃんと逃げ切れたんだ。
安堵から、その場に膝をつく。呪霊は逃げ場を失った私をせせら笑うように、静かに距離を詰めてくる。
(……あぁ、もう逃げられないな)
静かに目を瞑ると、脳裏に浮かんだのは悟の顔、そして激しい後悔だった。
結局、返事も伝えられなかった。 こんなことになるなら、あの時、彼の抱擁を拒まずに抱きしめ返せばよかった。難しいことを考えず、自分の気持ちを素直に告げればよかった。キスひとつ交わすこともできないまま、私はここで死ぬのだ。
けれど──。

「……タダで死んでたまるか」

腹の底から残った呪力をすべて絞り出す。最後の術式を発動するために。 1つの結界を何重にも層として重ね合わせ、この廃墟全体を丸ごと飲み込むほど巨大で強固な結界を構築する。
誰も知らない私の術式の特性──それは術者自身が内部に存在するとき、強度が最大化すること。 全呪力を注ぎ込んだ自縛に近いこの結界は、一級といえどそう容易く破れるものではない。

「……うぁああああああ!!」
『グギギッ……!?』

結界の範囲を、一気に圧縮していく。 過剰な負荷に耐えかね、崩落していく廃墟の破片。 呪霊が殺意を剥き出しにしてこちらへ飛びかかろうとするが、その動きは酷く緩慢だった。広大な空間を急速に縮小させているため、結界内部の空気密度と圧力が爆発的に跳ね上がっているのだ。全身が押し潰されるような超高重力。
当然、術者である私にもまったく同じ負荷が襲いかかる。 鼻から温かい血が伝い落ち、視界が赤く染まっていく。
自分がどうなったっていい。 このバケモノだけは、絶対にここで差し違えて倒す。私の命のすべてを賭けて───!

「はぁあああっ!!」
『ギッ……、ガっ……!』

結界はついに、私たちが立つわずかな空間にまで縮小した。 押し潰された建物の瓦礫や家具が、高圧環境の中でぐちゃぐちゃに蠢いている。最後の力を振り絞り、呪霊を包む結界だけを極限まで縮め、拳を強く握りしめた。
メリメリと音を立てて圧縮され、潰れていく一級呪霊。 役目を終えた結界は、そのまま消えるはずだったが制御が効かず、私の意識の混濁とともに周囲の空間ごとさらに収縮を始めていく。 このまま、私も空間の歪みに呑まれて消えるのだろう。意識が急速に遠のいていく。
──お父さん、お母さんごめんね、2人より先に死んじゃう親不孝者で。硝子、あんまりタバコとお酒取りすぎちゃダメやからね。傑、いつも悩んでる時に相談に乗ってくれてありがとう。……そして。

「……悟」

最後に、世界で一番大好きな人の名前を溢し、私の意識は深い闇へと落ちていった。