初任務


いよいよ今日は、高専に入学して初めての実地訓練。 夏油くん、五条くん、そして私の3人で現場へと向かう車内にいた。ちなみに硝子は、貴重な反転術式の使い手ということもあり実地訓練自体が少ないらしく、今日はお留守番だ。

「唯は呪術師の家系じゃないだろう? ここに来る前はどうやって呪術に触れていたんだい?」

後部座席で静かに揺られながら、隣の夏油くんが優しく問いかけてくる。

「あー……うん。低級呪霊を見つけては自分で祓っててん。それを窓の人に見られてスカウトされた、みたいな感じかな」
「そうか、私も似たような感じだよ」
「気抜いて足引っ張んなよ」

助手席から、鋭い声が飛んできた。バックミラー越しに視線を投げかけてくるのは五条くんだ。 初日に比べれば私の中の苦手意識もだいぶ和らいだ……と思いたいけれど、彼が私に向ける態度は、硝子や夏油くんに対するそれとは明らかに違う。刺々しく、どこか一線を引かれている感覚。心底嫌われているわけではないにしても、確実に好かれていない側の扱いだ。
(今日の実地訓練で少しでも動けるところを見せたら、ちょっとは認めてくれるんかな……)
そんな微かな淡い期待を胸の奥に押し込める。

「着きました」

補助監督の言葉で車が止まった。見上げた先にそびえ立つのは、古びた廃ビル。 一目で出そうだと分かる重苦しい雰囲気をまとっている。呪霊そのものは怖くないけれど、こういう怪談めいた気味の悪さはどうしても苦手で、一瞬足がすくんだ。

「結構階数あるな。じゃあ俺は上から見てくから、傑は5階から下、お前は1階な」

そう言うや否や、五条くんは勝手に指揮を執って勢いよく上階へと飛んでいってしまった。話には聞いていたけれど、人間が本当に宙を舞う姿を目の当たりにすると、改めて言葉を失う。

「相変わらず悟は勝手だな……。じゃあ、私達も行くとしようか」
「……そやね」

夏油くんと苦笑いを交わし、薄暗いビルへと足を踏み入れた。 外はまだ昼前の明るい日差しが差し込んでいるというのに、一歩足を入れた途端、まるで別世界のような闇が広がる。きっと呪霊の放つ濃密な呪力が、空気ごと歪めているのだろう。
静まり返ったフロアを進むと、すぐに奥へ続く階段が見つかった。そこで夏油くんと別れ、私は単身で1階の探索を始める。

「あ、おった」

角を曲がると、影の中から這い出てくる薄汚い呪霊の姿が見えた。 私はこれまで通り胸の前で片手を構え、術式を立ち上げようと意識を研ぎ澄ます。
私の術式は、性質としては結界術に近い。 敵を結界内に閉じ込め、そのまま空間ごと押し潰して圧殺する。一見すればどんな相手も安全に処理できそうな術式だが、相手の呪力が強すぎれば内部から容易に破られるし、一度に作り出せる大きさもせいぜい大人2、3人が入る程度が限界だ。
それでも――これまで祓えなかった呪霊なんていなかった。
きっと今日も大丈夫。心のどこかに、そんな小さな慢心があったのかもしれない。

「ん……? 何これ」

ふと、足元に違和感を覚えた。床の一部分が重たく濡れている。 1階のこの場所で雨漏りとは考えにくい。嫌な予感が胸を掠める。暗がりでよく見えなかったため、携帯のライトをかざした。
光の先で黒ずんでいたのは、赤黒い液体。 ーー血だ。

「た、助け……っ」

かすかな、掠れた男の声が闇の奥から響く。 血の跡を辿るように角を曲がった瞬間、私の息が止まった。

「ぅ……あ……」
「キキッ……!」

男の人が、呪霊に肩を深く噛みつかれながら血を流している。想定外すぎる光景に、脳の思考回路が完全にフリーズする。
(どうしよう……どうすればいいん……!?)
これまで私が祓ってきたのは、誰もいない場所に出てくる低級呪霊だけだった。人害のない空間だったからこそ、躊躇なく結界を張って押し潰すことができたのだ。 でも、今は違う。目の前に、呪霊に喰われかけている生きた人間がいる。
もし今、私がいつものように結界を張れば――あの男の人ごと空間を潰し、殺してしまう。
焦りで手元が乱れ、術式のイメージすら組み立てられない。 そうしている間にも男の人の呼吸は浅くなり、呪霊の顎がさらに深く肉へと喰い込んでいく。 何もできない。動けない。ただ恐怖と混乱に縛られ、立ち尽くすことしかできない。

「遅ぇと思ったら、こんぐらいの呪霊に何手間取ってんだよ」

不意に、背後から冷ややかな声が落ちてきた。 最上階に向かったはずの、五条くんだった。
なぜここに、と呆然と振り返る暇すらなかった。 彼は私の肩を粗暴に押し退けると、躊躇うことなく前へと踏み出す。指先をすっと掲げた次の瞬間には、男の人を傷つけることなく、呪霊の核だけを正確無比に穿ち、一瞬で消滅させていた。
あまりにも鮮やかで、無駄のない洗練された手際。 私の術式とは、積み重ねてきた努力の次元すら違う。 私は術式の発動すらできず、ただ助けを求める人を前に震えていただけだったというのに。

五条くんは倒れていた男の人の元へ歩み寄ると、術式でその身体をふわりと引き寄せ、私の横を無感情に通り過ぎていく。

「これぐらい祓えないなら、術師やめろよ」

擦れ違いざまに投げつけられた言葉は、氷のように冷たく、私の胸を深く深く突き刺した。
反論の言葉なんて、ひとつも出てこない。 私はただ、血の残痕が残る冷たい床を見つめたまま、立ち尽くすことしかできなかった。