チョコよりも甘い
夜の7時。傑の部屋のドアを叩く。他2人はまだ来ていないらしく、私はいち早く部屋の中へと足を踏み入れた。
「あ、そうだ。傑、先にバレンタイン渡しとくね」
「ありがとう。クッキー作ったんだね」
「そうねん。たくさん焼いて、みんなに配りやすいようにと思って」
「小腹空いていたから、一ついただこうかな」
そう言って、傑は袋から一枚のクッキーを取り出して口に運んだ。
「うん、美味しい。去年も思ったけれど、唯はお菓子を作るのが上手だね」
「レシピ本様様やよ」
「それでも、レシピ通りに作れない人もいるからね」
「まあ……思い当たる人はおるね」
「……そう言えば、ひとつ聞きたいんだけど」
傑は私の向かいに腰を下ろすと、少し声を落として切り出してきた。
「悟に何か嫌なことでもされたかい?」
「え、悟?」
突拍子もない問いかけに、私の思考がピタリと止まる。嫌なことなんてされた記憶は一つもない。むしろ彼はいつも、私を喜ばせようとたくさんの優しさをくれる。どうしてそんな質問が出てくるのか、まったく理解が追いつかなかった。
「嫌なことなんて1つもないけど、なんで?」
「……いや、私の勘違いのようだから気にしないでくれ」
「何やそれ」
「あ、悟たちも来たみたいだ」
ちょうど部屋のドアをノックする音が聞こえ、傑が席を立ったことで、結局この話はそれ以上追求されずに流れてしまった。何だったんだろうと不思議に思いつつも、私自身もそれ以上深くは気に留めないことにした。
「よっ、ゲームも持ってきたぜー」
「夏油、これ冷やしといて」
部屋に入ってくるなり、各々の持ち物を傑に手渡す二人。私も立ち上がって準備を手伝おうとした時、ふいに悟と視線が重なった。けれど、またしても私は不自然に目を逸らしてしまう。
(いい加減、いつも通りに接したいんに……)
「じゃあ、改めて。傑、誕生日おめでとうー! カンパーイ!」
準備を整え、それぞれ飲み物を手にしてグラスを突き合わせる。硝子と傑はいつものようにお酒、悟も変わらずノンアルコール。私も明日の朝は早い時間から任務が入っていたため、ソフトドリンクで付き合うことにした。私の誕生日会から約一ヶ月ぶりだったが、その間はろくに四人で話せていなかったため、積もる話は山ほどあった。途中でゲームを挟んだりしながら、気楽で、楽しい時間が過ぎていく。
「そう言えば、唯のクッキーめっちゃ美味しかったよ」
「あ、ほんと!? 嬉しい〜」
「私もさっき食べたけど、美味しかったね」
「……何それ。俺、貰ってないんだけど」
「あっ……」
そうだ、悟にはまだお菓子を渡していなかった。悟の分だけは生チョコだったため、帰りがけに渡そうと思って部屋に置きっぱなしにしてきてしまったのだ。
「ごめん、ここに持ってきとらんくて。帰る時に渡すね」
「……分かった」
明らかにテンションを落とした悟だったけれど、彼の分だけ特別仕様であることをここで明かしてしまうと特別感が薄れてしまう気がして、黙っておくことにした。
それから夜遅くまでぐだぐだと過ごし、ようやくお開きとなった。傑に別れを告げ、三人で寮の廊下を歩く。約束通り悟へチョコを渡すため、硝子とも挨拶を交わして解散した。自分の部屋のドアを開け、悟に「ちょっと待ってて」と声をかけて中へ入る。
「なぁ」
冷蔵庫に手をかけようとしたその時、背後からぽつりと低い声がかけられた。振り返ると、そこには今にも消えてしまいそうなほど悲しげな表情を浮かべる悟が立っていた。私は慌てて彼に駆け寄る。
「えっ、どしたん?」
「……悪かった」
急な謝罪だった。思い当たる節など何もなく、頭の中にいくつもの疑問符が浮かぶ。
「えっと……なんのこと?」
「……この間、帰りに急にキスして。嫌だったろ」
「え?」
「だから、ごめん。もうしないから」
私の返答を待たずに勝手に結論を出し、話を終わらせようとする悟。訳が分からず困惑する。嫌だった?私が?一体いつ、私がそんな素振りをせただろうか。
(あ……もしかして今日、私が目を逸らしたり避けるような態度を取ってしまったせいで……!?)
自分のこれまでの行動を思い返し、それが大いなる誤解を生んでいたことに気づかされた。私の単なる恥ずかしさゆえの行動のせいで、悟にこんな悲しい思いをさせてしまっていたのだ。私は必死で否定の言葉を紡いだ。
「ち、違う!! 嫌とかそんなんじゃなくて、ただその……恥ずかしくて……っ」
「……えっ」
「悟の顔を見たら、あのときのキスしたこと思い出して……恥ずかしくなって避けるようなことしてしまってん!でも、そのせいで傷つけてしまって……ごめん……っ」
一息に思いを吐き出すと、悟は緊張の糸が切れたかのように、その場にヘナヘナと崩れ落ちてしゃがみ込んだ。
「……焦ったーーー……! 俺が先走ったせいで、引かれたんじゃないかって……。バレンタインも、俺のだけ中々くれないしさ」
「それは、悟のだけ生チョコやから、持ち歩けんかっただけで……っ。別に意地悪しとったわけじゃないげんよ」
「あー……そういうことね。ったく、変に避けるなよ……」
「ごめん……。付き合うんも、キスするんも……悟が初めてやから、慣れとらんくて。……でも」
私も彼の前にしゃがみ込んだ。視線を同じ高さに合わせながら、勇気を出して言葉を絞り出す。
「悟にキスされたん、すごい嬉しかったし……もっとたくさんしたい、です」
「………っ」
言い切った瞬間、自分がとんでもなく恥ずかしい事を口走ったことを実感し、私は弾かれたように立ち上がるとバッと背を向けた。動揺を隠すため、チョコを取り出そうと冷蔵庫へ駆け寄ろうとした──その時、背後で部屋のドアが重たく閉まる音が響いた。
腕を強く掴まれ、そのまま引かれた先には、息を呑むほど美しい悟の顔があった。
「唯」
名前を呼ばれた次の瞬間、二度目のキスが重なる。
最初は驚いて目を見開いたけれど、彼の体温を感じながら静かに瞼を閉じた。10秒ほどの、長くて深い熱を帯びたキス。唇がゆっくりと離れ、そっと目を開けると、そこには吸い込まれそうなほど綺麗な青い瞳が私をまっすぐに見つめていた。
その後、どちらからともなく再び顔を寄せ合い、何度も、何度も唇を重ねた。
何回キスしたか数えられないくらい、バレンタインの甘く静かな夜は、蕩けるような温もりに包まれながら過ぎていった。