絵しりとり
久しぶりに、放課後の教室でペンを握っていた。最近は呪術の訓練や座学ばかりに追われていたから、こうして一般教養の勉強をするのはなんだか少し新鮮だ。
「ふっふーん」
「なんか上機嫌じゃん」
隣の席に座る硝子が、ノートから目を離さずに声をかけてくる。彼女が開いているのは生物の教科書だ。高専を卒業した後は、医学部のある大学へ進学して本格的に人体の勉強をするのだという。
「いや、至っていつも通りやけど……」
「五条とラブラブだもんねぇ。バレンタインの日も部屋でイチャイチャしてたみたいだし」
「……っ!」
思い出しただけで顔から火が出そうになる。
バレンタインの夜、私の部屋の前でのやり取りを、あろうことか硝子と傑の二人して聞いていたらしい。しかもその後、悟と部屋で二人きりになったところまでバッチリ目撃されていた。「もっとしたい」なんて言った私と、それに応じるかのように部屋へ入っていった悟。そんな光景を見られれば、その後に何があったかなど誰だって想像がついてしまう。
「た、確かに部屋でイチャイチャしてたのは、認めます……。でも!それで上機嫌になってるわけじゃなくて、鼻歌はいつも通りなんやって!」
「いいよ別に。幸せなんだったら、もっと調子に乗ればいいじゃん」
「でも、それウザく感じん?」
「別にー。唯だから何も感じないよ」
「硝子ちゃん優しい……」
「あ、でも、目の前でイチャつくのは見ててイラッとするからやめてね」
「それは絶対にしません」
「まあ、問題は五条の方か。最近、人目をはばからず唯好き好きオーラ出してるし」
「……それは、否めなくもない……」
最近の悟は、二人きりじゃなくても平然と手を握ってきたり、頭を撫でてきたりと、行動がどんどん大胆になっていた。傑から「少しは自重しなさい」と注意されても、「俺がやりたいんだからいいんだよ」とどこ吹く風。
(前の悟やったら、絶対恥ずかしがってそんなことせんかったんに……)
きっとあのバレンタインの夜を境に、彼の中のストッパーが外れてしまったのだろう。それでも、私が嫌がるような強引な真似は絶対にしないし、愛されていると実感できて私自身も嫌な気はしていなかった。
「じゃ、私先に部屋戻るねー」
「うん、おつかれー」
一足先に勉強を終えた硝子が、ひらひらと手を振って教室を後にする。私はもう少しだけ残ることにし、再びノートへと向かい合った。
物理はあまり得意ではないが、術式の構造を理解する上では欠かせない分野だ。問題集を開き、解法が見出せない設問にうーんと頭を抱える。
「全然分からん……何これ……」
「何が分からないって?」
ガラリとドアが開き、任務を終えた悟が教室に入ってきた。そう言えば、もうすぐ帰ると少し前にメールが届いていた。
「あ、おかえり悟。今物理の問題やっとるんやけど、どう考えたらいいか分からんくて」
「物理ね。どれどれ」
悟は隣の椅子を引いて私の真横に腰掛け、上から問題集を覗き込んできた。
真剣に問題を眺める彼の横顔を、私は隣から盗み見る。長いまつ毛、すっと通った綺麗な鼻筋、形の良い唇。相変わらず格好良すぎる自分の彼氏に見惚れていると──。
チュッ
「っ……!?」
ふいに横を向いた悟に、軽やかなキスを落とされた。不意打ちに驚いて固まる私に、悟はニヤリと不敵に笑う。
「ちょっ、ちょっと!」
「いーじゃん。唯だって、物欲しそうに俺のこと見てた癖に」
「そ、そういうつもりで見とらんくて……! 誰かに見られたらどうするげんて!」
「見せつけておけばいいんだよ。ほら、問題教えてやるから」
そう言って急に真真面目な顔つきに切り替わり、滑らかな口調で問題の解説を始める悟。私の心臓はバクバクと暴れているというのに、何事もなかったかのように平然としている彼が少しズルいと思ってしまう。
「はい、解き方分かった?」
「……分かったけど、分かんない」
「どっちだよそれ」
「……まだ頭の切り替えができとらんの!」
「えー……唯がたくさんキスしたいって言うからしてんのに」
「時と場所があるやん!……だめや、もう集中力切れた」
私はがっくりと椅子にもたれかかり、天井を仰いだ。
最近よく思うのだが、悟は案外女の子に慣れている。手を繋ぐのも、抱きしめるのも躊躇いがなく、今みたいにサラッとキスだってこなしてしまう。いくら五条家という特殊な環境で育ったとはいえ、実は私と付き合う前に誰かと付き合っていたりしたのだろうか。もしくは、私の知らないところで傑と女遊びをしていたとか。
そんな余計な考えが頭をよぎっていると、私が手にしていたシャーペンを悟が奪い、ノートの余白に何かを描き始めた。
「何描いとるん?」
「んー、暇だし絵でも描くかーって」
「それ私のノートなんやけど……まあいいや。じゃあ絵しりとりしよ」
「オッケー。じゃあ俺からな」
サラサラと迷いなく描かれたのは、なぜかリアルで愛嬌のあるゴリラの絵だった。特徴を上手く捉えていて、案外上手い。
「『ラ』やから……」
続いて私が描いたのはラッコだ。絵心があるとは言えないが、手にお腹の貝を持たせることで何とか意思表示をする。
「ラッコって、もっと愛嬌あるくね?」
「あるやん! 目くりくりしとるよ」
「なんつーか……ブラックホール的な深淵を感じる目だよな」
「うるさい」
ペチッと彼の腕を叩くと、悟はわざとらしく「いてっ」と声を上げて笑った。こういう、放課後の誰もいない教室で過ごす何気ないデートも、悪くない。
ふと、さっき胸の中に浮かんだ疑問が頭をもたげた。私はノートを見つめたまま、思い切って声をかけてみる。
「ねぇ、悟」
「んー?」
「悟って……元カノとかおったん?」
「いねーけど」
「じゃあ、ナンパとかして遊んどった?」
「……なんでさっきから俺に女がいた前提で話進んでんの?」
シャーペンを握る手を止め、悟がこちらをじっと見つめてきた。その瞳には、ほんのりと不機嫌そうな色が滲んでいる。変にこじれる前に、ちゃんとした理由を伝えておこうと慌てて言葉を続けた。
「えっと……ほら、悟って手繋いだりハグしたりするのサラッとできとるし、女の子慣れしとるんかなーって……」
顔色を伺うように小さく囁くと、悟は顔を背けるようにして机に突っ伏した。そのまま、ボソボソと低い声で呟く。
「……俺、お前以外に好きになったことも、触れたこともねぇよ。……慣れてないところ見せるとカッコ悪いから、余裕あるように見せてただけ」
続けて「悪い?」と上目遣いで睨んでくるその顔は、ほんのり赤く染まっていた。その表情を見た瞬間、胸がぎゅっと締め付けられる。
最強と呼ばれる男が見せる、私だけが知る格好つかない一面。それがたまらなく愛おしくて、頬が自然と緩んでしまう。
「……ううん。そういうところも好き」
「俺も」
ゆっくりと体を起こした悟が、再び私へと顔を近づけてくる。
こんな場所でダメだと思いながらも、私はもう彼を拒むことなんてできず、そっと目を閉じてその温もりを受け入れた。