待ち受け
「終わった終わったー!」
「お疲れ様。久しぶりに唯の術式を見たけれど、かなり精度が上がっていたね」
「ほんとけ!コソ練した甲斐があったんかも」
近場での任務を傑と二人で終え、高専へと戻ってきた。正直なところ、今日の等級なら傑一人でも事足りたはずだ。それでも私も一緒に組んでくれたのは、私自身の実戦経験や上達を考えてのことなのだと思う。私としても、傑の無駄のない体術や緻密な呪力操作を間近で見て学べる機会はとても貴重だった。
「あ、私夜蛾先生に呼ばれとったんやった。先、教室行っとってー」
「分かった」
傑と別れ、私は夜蛾先生のいる部屋へと向かって校舎の廊下を歩いていた。すると廊下の奥から、見覚えのない一人の女性が歩いてくるのが見えた。
綺麗な長い黒髪に、すらりとした背格好。どこか浮世離れした気品と風格を漂わせる彼女に見とれていると、すれ違いざま、彼女は私に視線を送ると小さく口元を緩めた。
そして、耳元でぽつりと囁く。
「……昨晩は、悟さんをお借りさせていただきました」
「……え」
振り返ったものの、その言葉の真意を問い詰める勇気など私にはなかった。ただただ、去っていく彼女の背中を呆然と見送ることしかできない。
昨日、悟は「本家に帰る」と言っていた。家の人間との話し合いがあると聞いていたし、メールの返信もほとんどなく、次の日の朝になってようやく届いたくらいだ。それ自体は特に気に留めていなかった。けれど、今言われた『昨晩お借りした』という言葉。
そんなはずがない。悟が浮気なんてするわけがないと頭では分かっているのに、なぜか鼓動が早くなり、冷や汗が背中を伝う。
ひとまず先生との約束を果たすため、深呼吸を繰り返して無理やり心を落ち着かせると、私は夜蛾先生の部屋へと向かった。
夜蛾先生との用事を終えた後、私は結局教室には戻らず、そのまま自室へと引きこもった。
ベッドに倒れ込み、悟から届いていたメッセージを開く。そこには「もうすぐ高専に着く」と書かれていた。けれど、どうしても返事をする気になれず、目元を腕で覆っているうちに、知らず知らず眠りに落ちてしまっていた。
コンコンコン──。
「唯ー、いるかー?」
扉を叩く音と聞き慣れた声に起こされ、うっすらと意識が覚める。私は身体を起こすと、胸の奥で渦巻く不安を押し殺しながらドアを開けた。
「……悟、お疲れ様」
「あ、もしかして寝てた?これ、京都のお土産渡したくてさ」
そう言って手渡されたのは、紙袋いっぱいに詰まった京都のお土産だった。わざわざ自分のために買ってきてくれたのだと思うと胸が温かくなる反面、それ以上に大きな不安が押し寄せてくる。
「ありがと。京都なんて滅多に行かんから嬉しい」
「また何が美味しかったか教えてよ。行けるタイミングで買ってくるからさ」
「分かった」
「あと、夜ご飯まだなら一緒に食堂で食べようぜ」
ごく自然な調子で誘ってくる悟。いつもなら二つ返事で頷くはずなのに、こんなモヤモヤとした気持ちを抱えたまま普通に接する器用さは私にはなかった。それに、私を好きだと言ってくれている悟を疑ってしまう自分自身にも、自己嫌悪が募っていく。
「……ごめんねんけど、今日ちょっと疲れとって食欲あんま無くて。このまま休もうと思うげん」
結局、誘いは断ることにした。悟は少し寂しそうな表情を浮かべたけれど、そっと私の頭を撫でてくれた。
「そっか。……小腹が空いたら、お土産でも食べてな」
そう言って悟は部屋を去っていった。私は再びベッドに横になり、逃げるように静かな眠りについた。
次に目が覚めたのは、深夜の3時だった。
案の定、夕飯を食べなかったせいでお腹が空いてしまった。悟がくれたお土産の抹茶ラングドシャを少しつまんだものの、喉が乾いたので飲み物を買いに自販機へと向かうことにした。
廊下を歩き、角を曲がったその時だった。
「あ」
「あ、唯」
自販機の脇にあるベンチに、悟が一人で座っているのが目に入った。
「こんな時間にどしたん?」
「傑の部屋でゲームしてて、今帰り。唯は? 目が覚めた感じ?」
「うん、そんな感じ」
「じゃあ、ちょっとだけ話そ」
悟は自分の隣をポンポンと叩き、座るよう促してきた。少し躊躇したけれど、大人しくその隣に腰を下ろす。
「何か食べたか?」
「ううん、食べとらんくて。悟のお土産ちょっとつまんだ。抹茶のラングドシャのやつ」
「あれね。美味しかった?」
「美味しかった!やっぱ京都の抹茶は味深いわ」
「なら良かった」
そう言ってこちらを見つめ、柔らかく微笑む悟。その優しい顔を見るたび、胸がちくちくと痛む。こんな気持ちを抱えたまま過ごすくらいならと、私は意を決して口を開いた。
「ねぇ、悟」
「ん?」
「昨日の夜さ、何しとった?」
「昨日の夜?家のやつらと飯食ってたよ」
「それだけ……?」
「それだけって……他に何があんの?」
意図が読み取れなかったのか、悟はキョトンとした顔で聞き返してきた。私は自分の服の裾をギュッと握りしめ、さらに一歩踏み込んだ質問をぶつける。
「……髪の長い、綺麗な女の人と一緒にいた……とか」
「髪の長い女……?ああ、あいつか」
心当たりがあったらしく、悟の顔色が変わる。私はハッと顔を上げ、彼の言葉を待った。悟がその人と何をしたのか。不安で押し潰されそうになりながら、じっと彼を見つめる。
「……お前が嫌な気分になると思って言ってなかったんだけどさ。昨日家に帰ったら、見合い相手の女を紹介されて。あ、もちろん即断ったよ?でも向こうが家まで訪ねて来ちゃってたからさ、そのまま追い返すわけにもいかなくて……とりあえず食事だけして、すぐ解散した」
「そ、そうなんや……」
「もしかして、誰かに何か吹き込まれた?」
「……告げ口みたいで嫌なんやけど。たぶんその女の人と今日高専ですれ違った時に『昨日悟さんをお借りしました』って言われて……。正直、ちょっと悟のこと疑ってしまった」
視線を泳がせながら打ち明けると、話を聞き終えた悟が苦々しげに小さな舌打ちをした。
(やっぱり……疑ってしまったこと、怒っとるよね……)
結果として何もなかったのだから、私が悟を信じて黙っていれば嫌な思いをさせずに済んだのに。自分の愚かな行動を激しく後悔した、その時──。
ふわりと、身体が温かい腕の中に包み込まれた。
「……悪かった。嫌な思いさせて」
耳元で響く、どこまでも優しい声。
「携帯の待ち受け見られたせいで、唯のこと特定したんだと思う。でも、命をかけても嘘はついてない。俺が好きなのは、唯だけだから」
「……っ」
不安でいっぱいだった心に、彼の温もりがじんわりと染み渡っていく。私を安心させようと必死に言葉を重ねてくれる悟の優しさに、彼がどれほど私を大切にしてくれているかが痛いほど伝わってきた。
私もその思いに応えるように、彼の背中にそっと手を回す。
「ううん、私こそ疑ってしまってごめん。私も、悟だけやから」
「うん……にしても、振られた腹いせにマウント取ってくるとか、性格悪すぎるだろあいつ」
「まあ、悟は五条家の当主やし、どこの誰かも知らん女が彼女って知ったらムカついたんかもね。……ってか、携帯の待ち受けって何?」
「あー……それは……」
急に歯切れが悪くなった悟は、ポケットから携帯を取り出すと、少し躊躇いながら画面をこちらに向けて見せてくれた。
そこに映し出されていたのは──以前の誕生日デートの時、大きな肉まんを口いっぱいに頬張っている私の写真だった。
「ちょっ……!それめちゃくちゃ恥ずかしいんやけど!?」
「いーだろ、可愛いんだから」
「せめてツーショットにしんけ!」
「これ、超お気に入りだから変えたくねぇの」
「じゃ、じゃあせめて他の人に見えんようにしといて……!」
「まあ確かに。今回のこともあったし、他の奴には見られないようにしておくわ」
携帯を閉じ、ポケットにしまい直すと、悟は立ち上がって私に手を差し伸べた。
「お腹空いてるだろ? 俺の部屋にカップラーメン残ってるからさ、食堂で一緒に食べようぜ。深夜の背徳めし」
少しだけ悪戯っぽく笑うその表情に、やっぱりこの人が大好きだと胸が高鳴る。「うん!」と答え、私はその大きな手をしっかりと握り返した。