理解者
ベッドの上に身を投げ出し、ぼんやりと無機質な天井を見上げていた。
昼間の実地訓練で、五条くんに叩きつけられた不躾な言葉。それが耳の奥で何度も反復し、私の心をじわじわと侵食していく。
「……術師、向いてないんかな」
たった1ヶ月前、自ら選んだはずの道だった。なのに今、足元からグラグラと揺らぎ始めている。
昔から物事を深く考えるのが苦手で、いつだってその場のノリと勢いで生きてきた。この高専に入学を決めた理由だって、自分の力が誰かに認められる場所だと思ったから。人の役に立って、認められて、感謝されたい――ただそんな、幼稚で単純な承認欲求。
だからこそ、今日初めて本当の意味で知ってしまった。呪術師の世界がどれほど残酷で、理不尽に満ちているかを。
人があっけなく命を落とすのが日常茶飯事であること。それをどこか他人事に捉え、「私ならなんとかなる」と高を括っていた自分の浅はかさを。
「……アホやな、自分」
ぐっと腕で両目を覆い隠す。
ジュッと視界の裏側が熱くなり、堪えきれなくなった涙がこめかみを伝って髪の毛に染み込んでいった。
できることなら、高専に入る前の自分に戻りたい。普通の高校生として生きていく選択肢を、もう一度選び直したい。届くはずもない願いが、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。
コン、コンッ。
暗闇へと落ちていく思考を遮るように、静かなノック音が室内に響いた。
ハッと体を起こして壁掛け時計に目をやると、長針と短針はすでに夜の10時を回っている。
こんな時間に、一体誰だろう。
……申し訳ないけれど、今のメンタルで誰かと話せる気がしない。寝たフリをして息を殺しかけた、その時だった。
「唯、起きてるかい? 明日の授業のことで、急ぎで伝えたいことがあってね」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、夏油くんの穏やかな声だった。
授業の連絡と言われてしまっては、さすがにシカト決め込むわけにもいかない。急いでティッシュを数枚引き抜き、目元の濡れを雑に拭うと、なるべく平静を装って扉を開けた。
「……どしたん? 授業のことって」
「ここじゃ何だし、少し歩きながら話そうか」
こちらの返事を待つこともなく、夏油くんはひらりと背を向けて歩き出した。
ただの伝言ならこの場で済むはずなのに。疑問を抱きつつも、私は彼の少し幅の広い背中を追うように歩を進めた。
ひんやりとした夜気の中、寮を抜け出し、静まり返った高専の敷地内を歩く。やがて月明かりが差し込むひらけた場所まで来ると、夏油くんはふっと足を止めて振り返った。
「……悟に、何か言われたんだろう?」
「……えっ?」
「昼間の帰り道から、分かりやすいくらい落ち込んでいたからね」
そう言って、彼は目元を緩めてフッと優しく微笑んだ。
……相変わらず、この人は周りをよく見ている。私の惨めな強がりなんて、最初からお見通しだったわけだ。
夏油くんは近くにあったベンチに腰を下ろすと、ぽんぽんと隣のスペースを叩いて私を促した。
「……よく分かったじ、五条くんに言われたって」
「行きと比べて唯は全然喋らなくなっていたし、悟は悟で不機嫌そうだった。あの2人の間で何かがあったなんて、誰が見ても明らかだよ」
「そっか……。まあ、私が全部悪いんやけどね」
ぽつりと呟き、うつむいて自分の靴先を見つめる。
そう、五条くんは何も間違ったことは言っていない。甘ったれた私の目を覚まさせようとしただけだ。これは100%私自身の問題で、夏油くんにまで余計な気を使わせるわけにはいかない。
(早く話を切り上げて、部屋に戻ろう……)
そう思って顔を上げかけた瞬間、夏油くんが「少し待っていて」と言い残し、どこかへ走り去ってしまった。
ぽつんと1人取り残され、帰るべきか待つべきかオロオロしていると、すぐに彼が戻ってきた。その手には、自販機で買ってきたのであろう炭酸ジュースの缶が2つ握られている。
「私もね、同じ非術師の家系出身なんだ。きっと、君の苦悩には理解できる部分も多いと思う。……良ければ、話してくれないかい?」
隣に腰掛けた夏油くんから、冷えたジュースを差し出される。
……こんな優しい言葉に、甘えてしまってもいいのだろうか。迷いから手をこまねいていると、彼は少し困ったように眉を下げた。
「これを受け取ってくれないと、私も部屋に戻れなくなってしまうな」
そんな、断れないような嘘をついてまで私の話を聞こうとしてくれる。
諦めて小さな声で「ありがとう」と告げ、缶を受け取った。パチパチと弾ける炭酸の音をBGMに、私はポツリ、ポツリと、胸の奥に溜まっていた感情を吐き出し始めた。
「……私、地元におった時は低級呪霊しか祓ったことなくてさ。人が死ぬ現場なんて、想像もしてなかった。やけど今日、本当に人が死ぬかもしれん場所に立って……初めて怖いって思った」
「うん」
「正直、舐めとった。私には術式があるし、なんとかなるやろって。でも実際は、私の力なんて全然で……五条くんの戦い方を見たら、自分の小ささが嫌になるくらい分かってしまってん」
「うん」
「そんな甘い考えで高専に来たから、五条くんにも嫌われて、挙句の果てに術師やめろなんて言われるんやなって……っ」
言葉にするたび、抑え込んでいた感情が溢れ出して声が震える。一度止めたはずの涙が、またボロボロと溢れ落ちて膝の上を濡らした。
夏油くんは遮ることも否定することもなく、ただ静かに、温かい眼差しで私の拙い言葉を受け止めてくれていた。
「……ごめん。こんな情けない話、聞かされても困るよね」
「謝る必要なんてないよ。私が聞きたいと言ったんだから」
「……夏油くんは……術師、やめたいって思うことないん?」
「もちろんあるさ。凄惨な現場を見れば、誰だって心が削られる」
「……それでも続けられてるの、ほんとにすごいと思う」
「そうだな……弱き人々を守るのが術師としての使命であり、私にしかできないことだからね」
「人々を守る、か……」
「唯は、そもそもどうして呪霊を祓おうと思ったんだい?」
「それは――」
問いかけられて、自分の原点を思い出す。
困っている人を助けたかった。辛そうに泣いている友達が目の前にいたら、手を差し伸べるのが当たり前だと思っていたから。
「……困ってる人を、助けたかったから。ただ、それだけ」
「私と同じ考えだね。……でもね、人を助けたいという綺麗事だけでは、この世界は生き残れない。理想を叶えるためには、相応の強さが必要なんだ。私も高専に来て2ヶ月だけど、思い通りにいかないことばかりだよ。だからこそ、強くなるための努力だけは絶対に惜しまないようにしている」
そういえば夏油くんは、いつも座学も実技も誰より真面目に取り組んでいるし、放課後もよくトレーニングウェア姿で走っているのを見かける。すでに2級という実績を持っている彼でさえ、泥臭く努力を重ねているのだ。
それなのに私は、自分の小さな才能に胡坐をかいて、努力すら怠っていた。それがどれほどおこがましく、危険なことだったのか。今になって痛いほど理解できる。
「別に悟を庇うわけじゃないけれど、あいつも過酷な環境で育ってきたからね。言葉はきついけど、君があっけなく死んでしまうのを危惧していたんじゃないかな」
「……そう、なんかな」
「それにね、悟も言っていたよ。あいつの術式は面白い。使い方次第じゃ1級呪霊だって倒せるんじゃないか、ってさ」
「えっ……ほんとに!? あの五条くんが!?」
「ああ。……まあ、『今のままじゃ弱すぎて話にならない』とも言っていたけれど」
「うっ……! そこは……精進します……」
思わず口を突き出す私を見て、夏油くんは声を上げて笑った。
一瞬で世界が劇的に変わったわけじゃない。抱えていた恐怖が消え去ったわけでもない。けれど、私の心に深く溜まっていた暗い感情は、いつの間にか綺麗に澄み渡っていた。
私はベンチから立ち上がると、夜空に向かってぐーっと両腕を突き伸ばした。
「よし! 来年には絶対2級術師になる! それで、五条くんも見返す!」
「ふふ、いい目標だね。一緒に頑張ろう」
「ありがとう、夏油くん。ほんとに気持ちがスッキリした!」
「君の力になれたなら良かったよ」
「ジュースもごちそうさま。今度なんか美味しいもん奢るね!」
「気にしなくていいさ。……そうだな、もし気にするなら、しばらく夜のランニングに付き合ってくれるかい?」
「ぜひ! 喜んでお願いします!」
夜風が心地よく2人の頬を撫でていく。
微炭酸の刺激と、少しのほろ苦さを残した、夏の夜のささやかな約束。