トレーニング
「……っもう、限界……ッ!」
「何言ってるんだい。まだ4周目じゃないか」
夜の8時。静まり返った高専の校内を、重い足取りで走り抜ける。
先日、傑に話を聞いてもらってからというもの、私は少しずつ変わり始めていた。やる気に満ち溢れ、授業にも真前向きに取り組むようになり、呪力のコントロール訓練も重ねる日々。そして1日の終わりには、こうして傑と一緒にランニングに励んでいるのだ。
しかし、元から体力がなく運動が苦手な私にとって、傑のトレーニングはなかなかにスパルタだった。
「傑みたいに……体力オバケじゃ、ないんやからっ……!」
「失礼だな。私も人並みだよ、体力くらいは」
呼吸を乱しまくりながら抗議する私とは対照的に、傑はどこまでも涼しげに返声を寄せてくる。
目標は毎日5周。けれど、どうしても4周目を越えたあたりから足が鉛のように重くなる。ヘロヘロになって今にも倒れそうな私を、傑は決して見捨てることなく、絶妙なペースで隣を伴走してくれた。厳しいけれど、どこまでも優しい人だ。
「……ッ、ゴーーーール!」
「お疲れ様。今日もよく頑張ったね」
ようやく5周目を走り終え、私は膝に手を置いて必死に息を整えた。 夏の夜気は湿り気を帯びていて、全身から汗が噴き出している。それでも、今日も目標を達成できたという小さな達成感が、胸の奥を心地よく満たしていった。
「唯」
名前を呼ばれて顔を上げると、目の前にタオルが差し出されていた。 受け取って顔や首筋の汗を拭い、そのまま首へとかける。
ここ最近で、傑との距離はぐっと縮まっていた。冗談を言い合えるようになり、自然と下の名前で呼び合う関係。もしここが普通の高校なら「あの2人、付き合ってるんじゃない?」なんて噂されてもおかしくない近さかもしれない。
けれど、ここは高専だ。生徒数も少ないし、そんな下世話な噂を立てるような人もいない。その程よい距離感と静けさが、私にとってはとても居心地がよかった。
「何がいい? 奢ってあげるよ」
「本当!? ありがと! じゃあ、カルピスソーダで!」
校舎に入り、自販機の前までやってくると傑が小銭を取り出した。買ってもらったカルピスソーダのシュワッとした炭酸と甘みが、疲労しきった身体にじんわりと染み渡っていく。
「唯、少し筋肉がついたんじゃないか?」
「えっ、本当!?」
「ああ。ふくらはぎ、前みたいにダルダルじゃなくなったよ」
「ちょっと、ダルダルは言い過ぎ! ……でも確かに、普通にしとっても少し硬くなったかも」
ペチペチと自分のふくらはぎを叩いてみる。手に伝わる手応えも音も、以前の柔らかいだけのものとは明らかに違っていた。たった数週間でも、自分の身体に変化が表れていることが無性に嬉しくなる。
「ある程度体力がついたら、次は筋トレかな。時には体術も必要になるからね」
「筋トレかぁ……傑のメニュー、エグそう」
「大丈夫、唯専用の特別なメニューを考えてあげるよ」
「……うん、死ぬかも」
そんなくだらない会話に花を咲かせていると、廊下の奥から足音が近づいてきた。 見上げるような高い身長に、独特な白髪。五条くんだ。
「やぁ、悟。飲み物でも買いに来たのかい?」
「あぁ。そっちは何してんの?」
「ランニングしてきて休憩中。唯が貧弱だからね」
「でも、ちゃんと筋肉ついてきたもん」
先ほどと同じようにふくらはぎをペチペチと叩いてアピールしてみたものの、五条くんは無表情のままこちらをじっと見つめているだけだった。
やっぱり、私がいると五条くんはふざけたりしない。私に対して、いつも見えない壁が存在しているような気がする。
気まずい沈黙が流れるかと思われたその時、彼が口を開いた。予想もしなかった言葉が、その唇からこぼれ落ちる。
「……お前ら、付き合ってんの?」
「……へ?」 「ん?」
私と傑の声が綺麗にハモった。完全に思考がフリーズする。 私と傑が、付き合っている? そんな感情は微塵も抱いたことがない。けれど、質問してきた五条くんの顔は、至って真面目そのものだった。
「悟、勘違いしているようだけれど、私と唯はただトレーニングの一環で走っていただけだよ。仲が良いと言うなら、硝子ともそうじゃないか」
「硝子はそういうんじゃないだろ。なんか傑とこいつは、雰囲気が違うっていうか……」
「……悟は恋愛経験が少ないからね。とにかく、私たちは付き合っていないよ」
「バカにしてんのか」
あきれたように肩をすくめる傑と、不機嫌そうに眉をひそめる五条くん。2人はそんなやり取りを交わしながら、「先に戻るね」と言ってそれぞれの部屋へと去っていった。
ほんの数時間前まで「高専には変な勘違いをする人なんていない」と思っていたばかりだったのに、まさか一番身近なところにいたなんて。
普段の彼は、特に私が絡むと人間関係にあまり興味がないように見えていた。 五条くんのイメージが、また少しだけ塗り替えられた夜だった。