『夕方』とは、昼から夜へと移り変わる時間帯のことを示す。
 昔は黄昏、逢魔時などと呼ばれていたらしいが、この現代社会においてそう呼ばれることは今やほぼ無い。時代の移り変わりに合わせて物事の名称が変わることは特別珍しいことではない。それはこの『夕方』という言葉においても同じことだ。普通の一般人であれば、そんな名前一つに細かく括ることなども無いだろう。
 ――そう、『普通の人』だったのなら何も考えずに済んだのに。


「……綴くん、遅いねぇ」
「そうだね。……縁くん、綴くんが帰ってくるの何時になるか分かる?」
「んー……」
 玄関前に一緒に座り、不安げに呟く弟の頭を撫でながら問いかける。私の言葉に弟は数秒ほど目を瞑り、そして静かに首を振った。

「役に立たなくてごめんね……」
「いいんだよ。視てくれてありがとう」
 しょんぼりと気落ちした様子で私に謝る弟を後ろから抱えるように抱きしめて、私はまだ帰ってこない兄の姿を思い浮かべた。二つ下の弟は同年代の子よりも若干小柄なので、抱き締めると女の私の腕の中にもすっぽり収まる。
 弟でも"視る"ことができないということは、恐らく彼はまた厄介事に巻き込まれているのだろう。現に時刻は既に逢魔時に入ってしまっているのに帰ってきていないのが動かぬ証拠だ。
 つまり彼が――兄である綴くんが帰ってくるのは、まだ先だということだ。

「寂しい?」
「うん。詠ちゃんは寂しくない?」
「どうだろう……でも、そうだね。少し、寂しいかな」
「僕もおんなじ」
「お揃いだね」
「うん、おそろい!」
 私の腕の中、顔だけをこちらに向けた弟とこつんとおでこを合わせて、不安な気持ちを吹き飛ばすように笑いあった。無事に帰宅するのを祈るばかりだ。


 ↑↓



 三澄綴は、つい最近立海大付属中に編入してきた転校生である。

 絹のように滑らかで艶やかな黒髪と白磁の肌、切れ長の瞳はビードロか宝石のようにキラキラと輝いており、筋の通った鼻と、果実のように熟れて赤く染まる唇が添えられた端正な顔立ち。彼はとにかく「美しい」で象られたような少年だった。
 常に紳士的な態度を崩さない柔らかな言葉遣いと穏やかな雰囲気。全てが「理想」に近い少年は、日々校内に居る同年代の異性から甘く苦く狂おしい慕情の念を送られている――なんてことはなく。
「綴様だ……」
「なんて素敵なの……今日もおうつくしいわ……」
「目の保養だな……」
 美しすぎた彼は、いつの間にか神聖な"不可侵領域"として、年頃の少年少女達に影から崇拝されるような存在になっていた。その存在が確認されたのは、彼が転校してきてから僅か数日後のことだ。ある意味新手の宗教にも近い程の熱狂ぶりに周りは多種多様な反応を示したものの、渦中の綴はそれに動じることなく、表情を一つも崩すこと無く、ただただ悠然とした美しい微笑みを浮かべていた。
 そう言った背景もあるせいか、綴に対する周りの評価は、「非の打ち所のない美少年」で固定されている。

「じゃあね、三澄くーん!」
「気を付けてね〜!!」
「また明日ー」

「ええ、皆さんもお気を付けて」
 きゃあきゃあと色めき立つ姦しい女子達に声をかけられて、それに軽く手を振って応じる。
 その動きの一つ一つに、ある生徒はうっとりとした顔で見惚れ、またある生徒はひっそりと拝み、ある生徒は今にも倒れそうな程顔を赤らめている。

 今日もまた、綴は"完璧"なまま学校を出た。


「……はぁ」
 視界から校舎が消え失せ街中まで来たところで、綴は一息吐いて先程まで見せていた微笑みとは正反対の、気怠げな表情を顔に浮かべた。軽く眉を顰めたその顔は、窶れているように見える。

 『転校生の三澄綴』は、才色兼備で品行方正な、完璧な美少年だ。
 そして三澄綴は、その"設定"を一つとして違えぬよう細心の注意を払いながら、完璧な仮面を常に身に付けていた。

(――仕方の無い事とはいえ、そろそろ潮時かな)

 ぼんやりと考えながら足を進める。これまで彼は依頼された『仕事』に応じ、『転校生』として色々な学校へ潜入してきた。
 今回、自身が住む東京から神奈川にある立海に転校生としてやってきたのも、依頼された『仕事』の一つだったからだ。しかしその『仕事』は、転入して早々に終わらせている。
 できることなら早々に退散したいのだが、あまりにも早い転校は周りの不信感を煽る。最終的に『事後処理』は恙無く行われ、彼が去ったあとには生徒の記憶の中から消えることになるのだが――処理は完璧にやらねばなるまい。
 故に暫くの間は立海へ通っていたのだが、この学校でやることなどもう無いし、毎朝毎朝わざわざ東京から神奈川へ乗り継いで行かなければならない手間が億劫だ。
そんなことで朝の貴重な時間が減ってしまうのは、仕事の後始末とはいえ、綴にとって大変不本意な出来事であった。

「詠ちゃんに会えない、電車は混む、縁にも会えない、父さんや母さんにも」

ぶつぶつと呟きながら指を折って不満な点を呟いてみれば、増々心のなかの不満が溜まっていくのが分かる。どうせなら、転入時に「温厚で紳士的な性格」ではなく、もっと粗雑で乱暴、もしくは淡白で非情な性格にしておくべきだったかもしれない、と今になって後悔の念が溜まる。
しかしまあ、過ぎたことはどうにもならない。今一番重要なのは、一刻も早く家に帰り、自分を待ちわびているであろう可愛い兄弟を抱きしめることだ。

(走っていけば、いつもの電車より一本は早いのに乗れる筈)

目標は決まった。グッと拳を握り、疲れ果てていた綴の目に生気が戻る。さあ、走ろう。そう思い軽く爪先を地面に叩きつけた、その時。


「――#苗字#綴くん、だよな?」

少し、いいかな。そう言って声を掛けてきた"誰か"に綴は内心舌打ちし、心の中で兄弟へ半泣きで謝罪しながら、微笑みを貼り付けて振り返った。



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