読み終えた本をパタリと閉じて、アーシェは視線をスマートウォッチへと落とした。
⸺もう、2時間
視線を上げれば対面に座る恋人が真剣な表情でノートパソコンを見つめている。彼はアーシェの物言いたげな視線にも気づかず眉間に皺を寄せて画面を睨む。
「…たーいちょ。ジュール隊長」
返事はない。
「2時間経ちましたよ」
「ん」
への字に結ばれた口から出たのは返事とも言えない音。
キーボードを叩く指先が一瞬止まった。アーシェの瞳に光が浮かぶ。しかし、期待も虚しく次の瞬間には再び軽快なリズムを刻み始め、恋人の注意は完全に画面の中へ吸い込まれていた。
アーシェはため息を飲み込み、ソファの背もたれに体を預けた。膝の上には読み終わったばかりの恋愛小説が無造作に置かれている。小説のなかで胸が焼けるような愛の言葉を交わす恋人と、今の二人は対照的だった。
窓から差し込む午後の日差しがリビングルームを優しく照らしている。時間は着実に進み、約束していたはずの“一緒に過ごす休日”は仕事という名の侵略者によって静かに切り崩されていく。
イザークの眉間の皺は深まる一方だった。時折漏れる低い唸り声や、苛立たしげに机を叩く指の動き…仕事に対する彼の真摯さは部下として尊敬する。だが、その姿を目の当たりにする休日の恋人としては複雑な気持ちが募る。
⸺せっかく新しいお洋服を着てきたのに
昨夜、鏡の前で時間をかけて選んだ真っ白なワンピース。彼好みのふわふわと女の子らしいそれを身に纏った自分を見て彼がどんな反応をするか密かに期待していた。今のところその存在すら認識されているかどうか怪しい。彼が自宅玄関にアーシェを迎え入れて開口一番に言った台詞は「少しだけ仕事がしたい」だったのだから。
アーシェはふと思い出したように立ち上がる。
「お茶、入れ直しますね」
声をかけるとようやく彼の視線が画面から離れた。しかし、それもほんの一瞬のことで「すまないな」と一言添えると再び作業に戻ってしまう。
アーシェは頬を膨らませてワンピースの裾のシワを直す。
彼が悪いわけではない。ザフト軍の将校として日々多忙を極める彼の休暇に急な仕事が舞い込むのはもう慣れている。
⸺でも
玄関を開けたとき、久しぶりに会う恋人にかける言葉はもっとあったのではないか。会話もそこそこに仕事を始めてしまった彼と今日視線がかち合った回数は片手に収まるくらいだ。
アーシェの不満を目の前の仕事人間は知らない。
ワンピースが彼のために選んだものだということも知らない。
⸺当然、このふわふわ可愛い布地の下に何があるのかも…
「イザークさん」
彼のマグカップを手に取ってアーシェはポツリと呟いた。胸の中で芽生えた小さな反抗心と悪戯心をそっと温めながら。
「ちなみに…」

「わたし、今日の下着はエッチです」

アーシェが背中で彼の間抜けな声を聞いたのは、リビングの扉が閉まるのと同時だった。


「⸺は?」
イザークが驚きのあまり顔を上げたときにはすでに扉は閉まっていた。
「…え?」
耳に残る言葉を頭の中で何度も繰り返す。
えっち? 思考がまとまらないまま画面を見つめるが文字列は意味不明な記号のようにしか見えなくなった。アーシェの言葉を理解しようとすればするほど手元の作業は進まなくなり、集中力は完全に霧散してしまった。
つい数秒前の緊張感溢れる軍人の顔は消え去っていた。今の彼は、初心な少年のようにただ頬を赤らめるばかりだった。