エリュシオン


 独歩の思いきり伸ばされた右手は、寸でのところで名前を捕らえた。

「まったく……人の話は最後まで聞けって……っ!」

 ギリギリのところだった。フェンスから身を乗り出した独歩の手は、墜落する最中の少女を引き留めていた。

「どうして……」

「どうしてって……あのなぁ、」

 ゆらゆら揺れる瞳。その中にはおかしいくらい不敵な笑みを浮かべた独歩がいた。

「俺は、お前を死なせたいためにここに来たんだぞ……!」

 あの時も、この世界でも。独歩はそうだった。このちいさな少女をーーその手を握るためにここにいた。それが存在理由だった。それこそが自己の確立をなしていた。
 だから、この手を離すわけにはいかないのだ。

「無理よ、だって私はもう……それにここからじゃ助かりっこない、」

 ーーせめて、あなただけでも。
 名前の目は、星明かりを灯した紺碧の瞳は、何より雄弁に語っていた。せめて、と。独歩の身だけを案じていた。自分のことはまるで勘定に入っていなかった。

「バカ言うな!」

 それが、無性に腹立たしい。人間など交換可能な存在に過ぎないと嘯くくせ、独歩だけはかけがえのない存在だとばかりに肯定する彼女が。ーーなのに独歩の気持ちだけは置き去りにしようとする彼女が。
 腹立たしくて、独歩は叫んだ。

「もしかしたら本当にお前が死ぬことで俺は救われるのかもしれない。けど、それは体だけだ」

 救うなら、心ごと救ってくれ。
 言い募ると、名前は息を呑んだ。その目に躊躇いの色を見出だし、独歩は力を振り絞る。
 限界だ。体も世界も。だというのに、不思議と独歩の心に焦りはなかった。
 ーーだって、この世界は。

「お前が願わなくたっていい。俺が代わりに叶えてやる。お前を一人で死なせたりしないから……っ」

 独歩は目を閉じた。
 思い出すのはいつかの夜。名前が扉を姿見に変えた日のこと。真っ白のワンピースを翻す名前が微笑んだ時のこと。
 その時のことを頭に浮かべ、願う。
 どうすればいいかはわからない。でも、自信はあった。確信も。この世界の主が名前だと言うなら。ーーそんな名前の意識の外でも世界が移り変わるなら。
 ーーきっと、俺にだってできるはずだ。

「絶対、手を離すなよ……!」

 返事は必要なかった。けれど名前が微かに頷くのが見えてーーそれだけで、十分だった。

「……っ、」

 悲鳴を上げていたフェンスが最期に断末魔の声を掻き鳴らす。その一瞬後、独歩は宙に投げ出された。頬を切る鋭い風。引き剥がそうと垂れ込める重力。
 それでも、独歩は名前の手を握り続けた。握り、抱き寄せた。
 温かかった。その体は確かに生きていた。生きて、呼吸をして。独歩と同じだけの鼓動を刻んでいた。
 だから恐怖も不安もなかった。逆さまの地球が押し迫っても。怖くはなかったし、死の予感もなかった。
 その思い込みが功を奏したのか。

「……なんだ、簡単じゃないか」

 気づけば二人は地面に座り込んでいた。足許に広がっていた夜天は空にかかり、代わりにあるのは豊かな草原だった。……マンションの前にあるのはただの道路だったはずなのに。

「メチャクチャだな、何もかも……」

 常識が通用しない。いや、冥府ならそんなものか。日本では常世と桃源郷を同義とする考えもあったようだし……。
 そこまで考えた後で、独歩は沈黙を守る名前の存在をーー繋いだままの手を思い出した。

「……っ、わ、悪い」

「……ううん、」

 謝りながらも、独歩はその手を離せないでいた。
 うまくいった、はずだ。展望はまだ見えないが、一先ずの危機は脱出したはず。名前も受け入れてくれたことだし、これからゆっくり二人で帰る道を探せばいいーー。
 そう思っているのに、目を伏せた名前を見ていると不安が掻き立てられる。何か、大事なことを忘れているような気がしてくる。重大な間違いを犯してしまったのではないかと、そんな気にさせられる。

「……名前?」

 おずおずと、問い掛ける。沈黙が苦しい。心臓が嫌な音を立てる。
 そんな独歩に、名前はちいさく笑みかけた。

「……大丈夫よ、私は。大丈夫だから……」

 心配しないで、と。名前は囁いて、手をほどく。それでも独歩の顔が晴れないと見るや、今度は名前の方からその手に重ねた。

「大丈夫、きっと帰れるわ……」

 宥めるように触れる指先。母が子に語りかけるような柔らかな声音。
 なのに名前の瞳の奥、清らかな湖面には暗雲が垂れ込めていた。


 ーーあれから。
 あの夜から、幾度朝日が昇るのを見たろう。どれほどの時をこの世界で重ねたろう。

「さむ……っ」

 夜しかないと思っていたのは思い込みでしかなかったらしく、あれ以来世界は現世と同じように太陽と月が回るようになっていた。
 朝と夜、そして季節が正しく移り変わる世界。それはもう現世に等しい。二度目の冬を迎える頃には、意識しなければここが常世だと思い出せなくなっていた。そのくらいに、平穏な時は独歩を麻痺させていた。

「ただいま……」

 一軒の、こぢんまりとした家。二人暮らしには大きいその扉を開き、独歩は巻いていたマフラーを解いた。
 しかしそうしていても返事がない。いつもならすぐに返ってくるのに。

「……っ」

 その時、胸に去来した感情はなんだろう。暴力的なまでの不安と焦燥。そのままに、独歩は駆けた。
 リビングに続く扉。それを乱雑に開け放ち、部屋の中に視線を走らせる。そしてその目は一点にーー暖炉の前で揺れるロッキングチェアで止まった。

「名前……?」

 恐る恐る。声を震わせながら独歩は近づいた。近づき、その揺りかごを覗き込んだ。
 椅子の中では少女が眠っていた。人形のように。あるいはーー■■のように。焔で輪郭を明々と染め上げながら、名前は静かに眠っていた。
 その手に、触れる。躊躇いがちに、けれど堪えることもできず。触れ、少女の長い睫毛が震え、そしてーー。

「、独歩さん……?」

 幕が上がるようにゆっくりと。その眼が姿を現す。焔を抱いた黒曜石が。緩やかに惑い、そして独歩の存在を知覚した。
 そのことに、途方もない安堵を覚える。
 よかった、本当にーー。
 ほっとしたせいか、足から力が抜けた。がくり、膝をつき、長い長い溜め息を吐く。
 それを名前は眠気の残る目で見下ろしていた。

「どうしたの、いったい……」

「なんでも……いや、」

 なんでもない。と、言いかけて。独歩は少女の両の手を包み込んだ。未だに戦く指先。自身の想像した未来に怯え、その小さな体に縋った。

「怖かった……。お前が、どっか行ったんじゃないかって……」

「私が?」

 言うと、名前はおかしそうに目を細めた。
 名前の腕の中は揺りかごのようだった。温かで、安心する。それが少女という性によるものなのか、それとも彼女独自の性質なのか、独歩にはわからない。たぶん、この先もずっと。
 少女の腹に顔を埋め、その背をきつく抱く。そうしても名前は文句ひとつ溢さない。むしろ「しようがない人ね」と呆れたように言って、独歩の髪に触れた。
 無造作に伸ばされた髪。その一房一房を丁寧に梳きながら、名前は「大丈夫よ」と囁いた。

「安心して。私はどこにも行かないから。ずっとあなたの側にいるから……」

「あぁ、そうだよな、その通りだ……」

 だって、名前には行き場がない。名前には、独歩には。この世界以外知らないし、この世界の外のことなどどうだっていい。……どうだっていい、はずだ。
 なのに不安は拭えない。何かを忘れているような気がする。
 おかしな話だ、と独歩は苦笑した。
 忘れたことなどあるものか。この世界の主は独歩だというのに。なのにその意識の外で何かが起こるなんて、そんなことーーあるはずもない。そのために聖書も詩篇もすべて焼き捨てたのだから。

「でも、何かしら……私、やらなければならないことがあったような気がするの」

「……気のせいだろ」

 だから、独歩は笑った。物思いに耽ろうとする名前を制して。夕食にしよう、と誘った。

「……『まもなく私たちは沈むのだ。冷え冷えとした闇の底に。お別れだ、眩しい光よ。私たちの夏は短すぎた』ーー」

「どうした、突然。それボードレール……だよな?」

「ええ。ボードレールの『秋の歌』よ」

 突然。どこかに目を馳せ、口ずさんだ名前は淡い微笑を灯して言った。

「なんだか恋しくなったの。あの白く灼けつく夏が」

 憂いなどない。この世界には現在しかなく、過去も未来も存在しない。
 だというのに、名前はどこか寂しげに笑うのだった。