フーゴ√【ヴェネツィアにて】
『キングクリムゾンの謎6』から『ガッツのG』の間の話。
もしも船着き場で全員ボートに乗り込んでいたら。
恋は一番に軽症い熱病だ、とかつてフランスの詩人は言った。何故ならば私の悩みの凡てを消してくれるから、と。
ーーあぁ、まさしくその通り。今のぼくは酔いが回っているとしか思えない。普通ならばこんな決断しなかったろう。そう、熱病にさえかかっていなかったならば。
「みんな元気ねぇ……」
柔らかな日差しが幾筋もの房となり水面を照りつけている。その傍ら。大運河カナル・グランデ沿いに立つリストランテでぼくたちは遅い朝食を取っていた。
相次ぐ襲撃。その後に訪れた転機。ボスとの決別により疲弊しきっているぼくとは対照的に、ナランチャたちは常と変わらない。いつも通り元チンピラらしく態度が悪いだけの一般人をタコ殴りにしていた。
ぼくだってこれが平時であったならそこに加わっていたろう。もしくは彼らを諌めていたか。けれど今のぼくにそんな気力はない。ワインで喉を潤し、ナランチャたちをぼんやりと眺めていた。
その隣。静かにフォークを動かしていた名前は微笑ましいとばかりに頬を緩める。まったく、彼女の感性というのは理解しがたい。どこに微笑ましい要素があるのか。見守られるばかりの一般人としたらたまったものではないだろう。ーーまぁ、そんな彼もすっかり意識を失っているのだが。
「いや、アレは元気というか能天気というか……」
「いいことじゃない。役割分担できてて」
名前の視界には気絶した一般人など存在しないらしい。彼女は彼女で随分と極端だ。ぼくら仲間に対してはそれこそ聖母の如き懐の深さを見せるというのに、これがその他大勢となると途端に興味をなくす。愛情深いのかそうでないのか微妙なところだ。
……が、そういうところにすら喜びを見出だしてしまうのだからーーぼくは特別な存在だと、そんなのは思い上がりも甚だしいというのにーー最早手の施しようもない。
「フーゴ?」
「いえ、それにしたって騒々しいなと思って」
「あぁ、そうね。確かに……あんまりだと追い出されちゃうかもしれないものね」
ここはネアポリスじゃあないんだもの、と。水上都市ヴェネツィア特有の瑞々しい煌めきに彩られる微笑。その鮮やかな紅に、脣色の柘榴水にーーぼくは目眩がした。
いつも。いつだってそうだった。あの時もーーサン・ジョルジョ・マジョーレ島の船着き場でも。組織に反旗を翻すというブチャラティたちをぼくは信じられないと見送った。見送る、はずだった。
なのにぼくは今も未だ彼らと共にいる。ぼく自身でも抗いがたい熱病によって。ぼくは彼らと同じボートに乗り込んでしまったのだ。それが破滅へと繋がっているとわかっているのに。この選択は正気じゃない、どうかしてると警告する声は鳴り止まないのに。
それでもぼくは、彼らと共に在る今を選んでしまった。たったひとつの恋によって。彼女の白い腕だけがぼくにとっての地平線なのだと信じきって。
「でもよかったわ、あなたが一緒に来てくれて」
「へぇ?そんな素振りはチラリとも見えませんでしたがね」
「あらだって、あそこで私が口出しするのはお門違いでしょう?これは私の望みであって、あなたがどうするかはあなただけにしか決められないことなのだから」
ぼくにしか決められないだって?そんなはずがない。だってぼくは他ならぬあなたの呪いで死への旅路に足を踏み入れてしまったのだから!
ーーそれを呑み込んだのは寸でのところ。彼女を詰るのはそれこそ見当違い。「……そうですね」道理が立たないことだと、ぼくは非難の言葉と一緒にワインを嚥下した。
回るアルコール。気持ちのいい波が心臓を撫で、思考を溶かしていく。
そうすると、ふ、と思う。
ーー果たしてこれでよかったのだろうか。
いつだってそうだった。ぼくひとりが紅色の酩酊に襲われるばかり。彼女は露とも知らず、聖母は無垢なまま。
ーーけれど、本当の望みは、
「……名前、」
「なぁに」
「…………、」
ぼくは、と言った声は音もなく。空気を震わすばかりに思えたが、しかし本当のところはどうだったのだろう。ともかくぼくは言葉を続けた。
酒気に溺れ、喘ぐようにして。或いは死にかけの老人の如く。それでも口を動かした。
「……すきな女ひとり放り出すなんていくらなんでも格好つかないでしょう」
この言葉が名前に届いたのか。間違いなくその鼓膜を震わしたのか。ぼくには察することしかできないが、彼女が目を見開くのだけははっきりとわかった。
そうしてからぼくは慌てて付け加える。「彼女のこと?なんて野暮な質問はしないでくださいよ」視線は一度椅子に置かれた亀へ。その中で眠るトリッシュへと走る。
その後でぼくはとてつもないことを口走ったのだと漸く諒解した。が、ナランチャたちもブチャラティとジョルノもそれぞれの話に夢中のようだ。だからそう、大事なのは名前のこと。彼女に視線を戻し、その唇が動くのを祈るような気持ちで見守った。
ーーすると。
「……それは、自惚れてもいいってことかしら」
名前はどこか戸惑いがちに小首を傾げた。そうするとブロンドの髪が薄紗のように頬へとかかる。日に透け、輪郭が黄金色を帯びる。香り立つのはーーなんだろう。
雨に濡れた木苺の匂いであり、甘いミルクの匂いでもあり。熟れた果物と菩提樹の緑と牧場の蜜とーー愛の匂い。大いなる謎が秘められた森はぼくを惹き付けてやまない。触れたいと思う。思うから、ぼくは力強く頷いた。
そうするとさしもの名前も受け入れざるを得ない。彼女は目を閉じ、深い深い息を吐いた。「あぁ、……」それは今際の際、命を絞り出す音に似ていた。たぶんきっと、この時彼女は一度死んだのだろう。そんな風にぼくには思われた。……明確な理由などは思いもつかないのだけれど。
ともかく再び開いた彼女の目はそれまでと違う輝きを宿していた。聖人のような曇りのなさを喪った代わり、原野を駆ける少女のような自由を獲得していた。
「例えばもし、もしも私があなたよりずっと歳上だったとして、」
「構いませんよ、別に」
なのに諦め悪く問いを繰る名前に、しかしぼくは躊躇わない。こうなったらもうどうにでもなれ。そんな気持ちでぼくは言葉を重ねる。
「構いません。実年齢がどうであれ、あなたが子供っぽいのには変わりないんですから」
「……なぁにそれ」
酷いわ、と。冗談混じりに名前は吐息を洩らす。だがそこに強ばりはなく。肩は力を抜き、目元は和らいでいた。ーーあぁ、いつもの名前だ。ぼくが初めて好きになった女性。聖母のような懐の深さと乙女のような奔放さ。彼女は黙しがちな湖であり、荒海の夕日であった。
彼女が何者であれ、それが生来の気質であることに違いはないのならーーぼくの想いが変わることもまた有り得ない。
その頑なさが伝わったのか。名前は観念したように小さく溜め息を吐いた。「わかったわ」そして次に彼女は恥じらいを含んだ薄桃色の微笑を刷いた。
「この戦いが終わって、それでもあなたの気持ちが変わらないなら……」
「……まだ待てと言うんですか。酷いのはどっちだか」
「うう……、そ、それは確かに」
ぼくがそう言った途端、顔色を悪くする名前。ころころと変わる表情に、ぼくもようやっと口元を緩める。
「いいですよ、待つのは慣れてますからーー」
ぼくは笑って、テーブルに置かれた名前の手に自身のそれを重ねた。
ひどく身軽な気持ちだった。背負っていた荷をほどいたような、そんな身軽さ。清々しい気分だった。まだ何も獲ていないというのに、世界の何もかもを手にしたような気分だった。
日差しは熱を増し、柘榴水は名前の瞳にまで及んでいた。眼差しは熱く、白い輪郭すらも朱を帯びていた。ーー彼女もまた、熱病に侵されているのだ。
触れ合う指先から溶けるよう。ヴェネツィアの真昼。ぼくは名前の指先に熱を絡めた。汚れなき日の光から隠れるようにして。
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アンドレ・サルモン『土耳古うた』
マックス・ジャコブ『地平線』
レイモン・ラディゲ『柘榴水』
ルミ・ド・グールモン『髪の毛』
等より引用。
まだ原作沿いでどうなるか考えていないのですが、もしも原作と変えるようならこの話と同じような展開にしようかと。