ブチャラティ√【ハプニング】前編


 深く生い茂る木々。天高く響く鳥の声。どこまでも遠い青空。

「どこだここは……」

 呆然とした呟きも空気に溶けるばかり。答えはない。呟いたブチャラティ当人は勿論のこと。すぐ隣、座り込んだままの名前もまた。目を丸くしたまま、恐る恐るの体で辺りを見回した。

「ネアポリス……じゃあないわよね」

「あぁ、こんなところ見た覚えがない」

 下町の風情溢れるスパッカ・ナポリでもなければ、海風の気持ちいいサンタ・ルチアでもない。二人を取り囲むのは深い森。恐ろしいほどの静寂が広がっていた。

「スタンド、かしら」

 そっ、と。注意深く周りを気にしながら名前は声を落とす。ブチャラティを見上げる眼差し。それは既に落ち着きを取り戻し、いつでも敵を迎え撃つという覚悟の固まった目であった。
 ブチャラティも「恐らくは」と用心深く囁く。ほんの一瞬。どんな些細な変化すらも見逃すまいと。神経を尖らせながら、事の発端に遡った。
 よく晴れた午後だった。ネアポリスは今日も平和。生まれ変わった組織の元、穏やかな日々を満喫していた。
 ブチャラティもまた例に漏れず。安らかな心地で道行く人々の笑顔を見守っていた。
 行きつけのカフェ。オープンテラスからは多くの世界を見ることができた。そう、偶然通りかかった名前のことも。ーーそれを追う怪しげな人影も。
 ブチャラティに気づき、笑顔で駆け寄る名前。その後ろ、付かず離れずの位置で立ち尽くす男。
 訝しみ、席を立った。それがいけなかったのかもしれない。怪しげな人影ーー見慣れぬ顔の男は自分を見つめる存在に気づいてしまった。……気づかれてしまったのだ。
 あとはもう急転直下。名前へと手を伸ばす男。それを阻もうとスタンドを発動させるブチャラティ。そして彼女と共に壁に取りつけたジッパーの中に飛び込みーー今に至る。

「どうやらオレたちはあの男の作り出した世界に閉じ込められたらしいな」

 辺りを探ってもなんの気配もない。恐らく男のスタンドは能力の大部分を異世界構築に費やしているのだろう。こちらに攻撃を仕掛ける様子がないのもそのためか。……或いは他に目的があるのか。

「…………、」

 これ以上は考えるだけ無駄だろう。男の目的なんか知ったところでどうということもない。脱出の糸口にもなりやしない。
 ならば行動を起こすのが唯一の道。ともかく辺りを捜索しないことには始まらない。
 そう、名前に声をかけようとした時だった。

「ねぇ、ブチャラティ」

 徐に。口火を切った名前が見つめるのはブチャラティ、その全身をためつすがめつ眺め、それから彼女はそうっととある疑問を投げ掛ける。

「さっきから気になってたんだけど、その……、あなたのその格好もスタンドのせいなのかしら」

「格好……?」

 言われ、怪訝そうに見つめられ。そうして始めてブチャラティは己の体を見下ろした。慣れ親しんだ肉体。その殻というべき衣服が見覚えのないものに取って変わっていることに。
 ようやく気づき、「……なんだこれは?」と思わず溢す。それを聞き届けたのはやはり名前だけ。だが彼女はブチャラティの困惑など意に介さず。むしろ楽しそうに笑ってみせた。

「さぁ……?でも、……ふふっ、王子様みたいね」

 そう言って見上げる目。そこに輝くは少女の夢。夢見る瞳で彼女はブチャラティを見た。

「……そう言うお前だって、立派な格好してるじゃないか」

「え?……ほんとだ」

 しかしそんな彼女の纏うものだって少女のそれではない。大きく膨らんだスカート。ざっくりと開かれた胸元。レースとリボンで飾りつけられた体は貴婦人のそれであった。

「……もしかして、ここってシンデレラの世界だったりするのかしら」

「何故?」

「だって、ほら。私の靴、ガラスでできてるのよ?こんなの普通じゃないわ。それにあなたの格好だって」

 今の今まで座り込んでいた彼女が立ち上がり、裾をほんの少し持ち上げる。幾重にも重なるフリルの波。その下には彼女の言う通り、透明な靴が見え隠れしていた。つまりは彼女がシンデレラ。となるとブチャラティの役どころは……

「オレは王子役、ってことか……」

「たぶんね」

 柄じゃない。そう顔を顰めるのすら愉快らしく、名前はくすくすと肩を揺らす。

「だがだからといってどうすればいい?物語ならここで終わりのはずだろう?」

「うーん、……やっぱりお城に行かなくちゃいけないのかしら」

 木々の間。名前が指差す先にブチャラティも目を向ける。
 と、……確かに。天に向け首を伸ばす塔の姿を確認することができた。五本の塔。それから大理石の凱旋門。繊細な浮き彫り細工はヌアーヴォ城を想起させた。

「他に手がかりもないし行ってみましょうよ」

「……そうだな」

 そう言ったのに、名前は動こうとしない。ブチャラティから一定の距離を保ったまま。

「ところで名前、」

「何かしら」

「……風邪でも引いてるのか?顔が赤いぞ」

 そしてその頬は、目元は、微かに朱が滲み、真白い肌を色鮮やかに染め上げていた。
 故に風邪か、とブチャラティは案じた。そこにあるのは純粋な心。しかし熱を計ろうと伸ばされた手はあえなく躱されてしまう。他でもない、名前自身によって。

「そっ、そんなことないわ、たぶん、きっと気のせいよ」

「ならいいが……」

 指先が頬を掠める。その瞬間に。飛び退く姿はとても尋常じゃない。
 けれど名前は平気だと首を振るばかり。何も言わないで。乞うる瞳にブチャラティは二の句が継げない。気にかかる、心配だ。そう思うのに、それ以上踏み込むことができなかった。