復活祭


 能天気な声に呼ばれ、ぼくは顰めっ面を作る。殊更大袈裟なほど。そうしてから振り返る。振り返り、自分を呼んだその人を見やった。

「……そんなに叫ばなくったって聞こえてます」

 名前。その少女との付き合いは特別長いものではない。この全寮制の学校。慎ましい学舎に通い始めてからのことである。

「でもシオバナさんは返事してくれないじゃないですか」

 が、彼女はそんなことを気にしない。ぼくのその名前を呼ぶのはこの学校のどこにもいないっていうのに。名前はぼくが渋い顔をするのも気にせず、むしろ自分の方が怒っているのだといわんばかりの表情を浮かべた。

「シオバナさんは逃げ足が速すぎます!」

「あなたに捕まるのが面倒だからですよ」

「ま、またそんな歯に衣着せぬ物言いを……っ」

 高い声が学校の中庭に響く。それは管理棟だとか図書館だとか礼拝堂だとかに弾かれて木霊した。
 ぼくは溜め息を吐いた。これ見よがしにそうしてから、辺りに視線を走らせた。別に、誰に見られることを気にしているわけじゃない。どこで誰がどんな噂をたてようが、噂は噂。ぼくにとって損でも得でもなかった。
 けれど名前にとっては違うらしい。ぼくがその仕草を見せつけると、さっと顔色を変えた。「ご、ごめんなさいっ!」思い切り下げられる頭。そうすると彼女のウェーブがかった髪が勢いよく跳ねた。水飛沫か何かみたいだ。ぼくはぼんやりとそんなことを思った。彼女を見ていると、森林だとか牧場だとか、そうした自然に纏わる何かを思い起こさせられた。

「私ったらまた大騒ぎしてしまいました……。ごめんなさいシオバナさん。あなたがそういうの好きじゃないって知ってるのに」

 そうだ、その通りだ。ぼくにはこんな箱庭に埋もれる気など更々ない。少女とままごと遊びをするなどもっての他。たぶん彼女だってそれくらいは察している。バカだバカだと言われている彼女だけれど、その実はーー。

「……別に、気にしてません。あなたが落ち着きないのは今に始まったことではないですし」

 なのに酷く落ち込み肩を落とす様子を見ていると、ーー本当に不可解なことにーー慰めるような言葉を吐いていた。まったく、不可解なことに。そして理解が及ばないのはそれだけじゃない。こんな台詞にすら顔を輝かせる名前のことも。わけがわからないとしか言いようがなかった。

「……やっぱりシオバナさんは優しいですね」

「そう思うならそうなんじゃないですか」

「はいっ!」

 彼女はぼくのことを知らない。つまりはぼくがどんな人間かってことを。
 いいところのお嬢様らしく人を疑うこともしない、そんな彼女はぼくのような人間からしたら格好の餌。でもぼくが財布をスったところで彼女は怒ることさえしないだろう。それで誰かが幸せになるならよかった、と。諦念さえ滲む笑顔を浮かべるのだ。

「それで?いったい何の用?」

「あっ、そうでしたそうでした……」

 時計を気にする、素振りを見せる。と、途端に名前は慌てふためいてバッグを探る。それをぼくは不思議な気持ちで見守った。

「シオバナさん、どうぞ」

 そして、ぼくの前に差し出されたのは。

「イースターエッグ……?」

「はいっ!優しい優しいシオバナさんに感謝を籠めて、です!」

 それは卵型のチョコレートだった。どこにでもある、それこそ広場の屋台なんかでも買えるようなそれ。
 しかしぼくにはそれが夏の日差しのように眩しく見えた。でもたぶんそんなのは気のせいだ。アルミの袋が光を反射しているのが一瞬、燐光のように見えただけだろう。
 けれどぼくの手はそれを恭しく受け取っていた。まったく理解の及ばないところで。「ありがとう」そんな心にもないことを言って。素直に受け取っていたのだ。
 それを見て名前は恥ずかしそうに笑った。「本当は、」打ち明ける声はささやか。声を落として彼女は囁いた。

「本当はね、もっと立派なのを買おうと思ったんです。ほら、シオバナさんはチョコレートお好きでしょう?だから私、と思ったのですけど」

 お金が足りなかったのだ。と、名前はやはり恥ずかしそうに笑う。なんでも放課後にだけアルバイトを始めたのだとか。そこからぼくへのプレゼント代を捻出しようとしたらしい。ーーそんなことをしなくとも、彼女には有り余る財があろうにを

「自立ですよ!シオバナさんを見て、私もって思ったんです」

 そう考えているのが伝わったのか。名前は頬を掻きながらぼくを見た。尊敬の籠った眼差しで。ーーぼくの仕事が彼女のそれとは違い、後ろ暗いものだとも知らずに。
 見つめてくるものだから、ぼくは思わず目を逸らした。

「でもおあいにくさま、ぼくはお返しなんか用意しちゃいなあですよ」

「あはは、わかってますよ」

 素っ気ない言葉にも彼女は傷つかない。朗らかに笑い、「じゃあ今度、勉強見てください」と赤点すれすれを生きている彼女はそう言った。
 しかしその目に一瞬だけ過る影。彼女と縁深いそれは諦めの色。そう、彼女は本心から言っちゃいない。断られるだろう、そう予感しながらーーそしてそれを受け入れながらーー彼女は笑うのだ。

「わかりました、見てあげましょう」

「えっ」

「これで貸し借りなし。いいね?」

 それがぼくには腹立たしい。なんでそんな顔をするのか。どうしていつも諦めているのか。現状に甘んじているのか。ぼくには納得がいかなかった。
 関係のない話だ。彼女とはきっとこれっきり。この学校を去った後はただの思い出になる。いや、将来思い出すことがあるかも怪しい。きっと彼女だって『そういえばそんなこともあったかな』なんてアルバムを見返して思うだけだろう。
 ーーそう、わかってはいるのだが。

「あ、ありがとうございます……!」

 感極まったように頭を下げてくる彼女を見て、ぼくは深く考えるのを止めた。まぁ、時にはこういうこともあるだろう。優等生の振りをしておくのも悪くはない。……なんて、思いながら。