司書と直哉とバレンタイン
付き合ってない。片想い設定。
二月十四日。バレンタインデーといえば現代日本の少女にとっては決戦の日。特務司書である名前もこの日ばかりは恋する乙女。皆が寝静まった夜、ひっそりと。そう、あくまで秘めやかに。密やかに事は進めなければならないのだ。
「…………、」
オーブンから取り出したものを見下ろして一呼吸。
ここまでは予定通り。過不足なく作ることができているーーはずだ。
けれど不安は尽きない。何せ贈る相手は人ならざる神。人の身でありながら天上の座に召し上げられたお人だ。名前の作ったものが果たして彼の人の口に合うだろうか?ーー彼は優しいから決して否とは言いはすまいがーーだからこそ余計に不安になる。
……迷惑では、ないだろうか。
そんなことをぐるぐると思い悩みながら名前は最後の仕上げに取り掛かる。冷凍乾燥させた赤い果実を生地の上へ。トッピングを施し、適当な大きさに切り分けていく。
慎重に、慎重に。恐ろしげなものに触れるが如き手つきで名前はナイフを動かした。
だから、気づかなかった。
「お、旨そうだな」
そう、声をかけられるまで。すぐ後ろ、肩越しに名前の手元を覗き込むその人に。
気づかなかったからこそ名前の心臓は大きく跳ねた。それはもう口から飛び出すんじゃないかってくらいに。息を呑み、洩れかけた声を殺し。
しかし狂った手元までは制御できず、予想外の方向へ。
「あっ……」
「おっ、と……」
けれど切っ先は寸でのところで止められる。素肌に食い込むより早く。名前を驚かせた張本人の手によって。
「……悪い、驚かせちまったか」
その人はーー志賀直哉という神様はひどく申し訳なさそうに声を落とした。窺う目。怪我はないかと案じる視線。そこには名前しか映っていない。その、実り豊かな緑の目には。
「ええ、ええ、大丈夫ですとも」
それが余りにーーそう、身に余るほどーー優しいものだから、名前の眼差しは伏し目がちなものになる。
「あなたが止めてくださったんですもの。傷ひとつありませんわ」
それよりも気にかかるのは触れる熱のこと。ナイフを握る手。そこに添えられた肌は燃えるよう。
だがそれは名前の錯覚でしかない。本当のところ、彼の指先というのは月光のようにしなやかで、冷たいものであると名前は知っていた。
「……ですから、」
微かに身動ぐ。手を離してとは言えない。言いたいわけでも、また。でも心臓は持ちそうになかった。
彼は「そうか、」と見てわかるほどにほっとしてみせた。それからもう一度、「悪かった」と一言。言って、体を離した。
それからぱっと表情を改めて、「何作ってたんだ?」と訊ねてきた。
「こんな夜遅くまで起きてるなんて健康に悪いぞ」
言ってくれれば手伝ったのにーー、なんて。
ーー神様というのはとことん凡人の気持ちがわからないらしい!
人好きのする笑み。心底優しさから言っているのだとわかる。彼は決して悪戯に言っているのではないのだ。本心から名前を気遣っている。それが名前を困らせるものだとも気づかずに。
「それは……とても……ありがたいですが…………」
しどろもどろ。あからさまに狼狽えながら名前は内心頭を抱えていた。
だって、どう答えればいい?
彼が厚意から言ってくれているのは明白。だがしかし、それを受け入れるわけにはいかない。彼にとってお菓子作りが『そういうもの』なのだとしても、……。
そこまで考えて、名前ははたと気づく。彼にとっては特別なことではない。であるならばーー
「どうした、名前?」
「い、いえ、……、そうですね、ええ、今度はお願いしようかしら」
……イベントひとつで浮かれている自分が恥ずかしくなる。
込み上げる羞恥を圧し殺し、名前はぎこちなく笑う。
あぁ、もう!いっそのことバレンタインなんてなかったことにしてしまおうかしら。このお菓子だって、そう、明日のおやつとして皆に振る舞えばいいんだわ。
そう捨て鉢に思う傍ら。でも、と囁く声がする。もうひとりの名前。自身が強く訴えかける。
ーーでも、いいの?本当に、それで。この想いをなかったことにしてもいいの?
「……、」
視界の隅に映るガトーショコラ。ベリーの赤色に目が眩む。
いやだ、と思う。それだけは、絶対に。
自分でも信じられないほどの激情。荒くうねる奔流は心臓を食い潰し、そして。
「ーーでも、こればっかりは譲れません」
「え?」
「だってこれは……わたくしだけの気持ち、あなたへの想いの証ですから」
嵐が過ぎ去った後にやって来るのは凪。心中をすっかり吐露してしまった名前の心はすっきりと晴れ渡っていた。もう恐れることはない。そう思いながら、見開かれた目を見つめた。
「それは……」
戸惑いがちな微笑。
「感謝とか、そういった……」
「ものではありません」
見当違いの答え。聡明な彼らしからぬものに名前は心の中で眉をひそめる。
もし彼がそれを優しさというのなら。……そんなものは御免蒙る。名前がほしいのは明確な答え。ただそれだけだった。
「直哉さん、」
一歩。踏み出したのに縮まらない距離。後ずさる彼の姿に泣きたくなる。でも唇は止まらない。止められない。
「不要と思うならそう仰ってください。別にわたくし、その程度でみっともなく泣き喚いたりなどいたしませんわ」
こんなのは強がりだ。でもこうでも言わないときっと彼は答えをくれない。
「……いや、そうじゃないんだ」
…………。
「では、どういうことでしょう?」
今度困惑したのは名前の方。切り捨てられる覚悟ばかりをしてきたから予想外の反応に戸惑いを隠せない。
そんな名前に、彼はうっそりと笑んだ。そう、自嘲にも似た色で。嗤い、くしゃりと前髪を掻き上げた。
「俺はーー俺は、そんなできた人間じゃないんだ。お前に憧れてもらえるほどーー神様には程遠い、」
俯く顔。その半分を被う掌。そして、指の間から覗くのは揺れる瞳だった。
彼が嗤っているのは己自身。神と持ち上げられた自分を嘲笑うもの。
そしてそれは名前の心に痛みを呼び起こした。心臓がしくしくと泣いて、痛い。でもこの痛みは名前自身のせいでもある。
彼を神とした者。そのひとりは他でもない名前なのだから。
「わたくしは、」
ーーだから、名前には責任がある。だから名前は踏み出さなければならない。逃げられても、避けられても、無理矢理にでも、名前は、
「わたくしが信じたのは万能の神などではありません。器用で不器用で、優しいのに優しくなくて、神様を自認しているくせ、人間らしい、そんな直哉さんだからわたくしはお慕いしているのです」
逃げを打つ体を追いかけ、淑女らしくもなく殿方を壁際まで追いやり。その手を無遠慮に掴んで、名前は訴えかけた。
必死だった。恥も外聞もない。乙女の慎ましさは皆無。きっと呆れられるだろう。でも今こんな顔をさせ続けるよりはその方がずっとよかった。
「名前……」
彼はもう目を伏せていない。驚きのためではあるが、それでもその目は名前をしっかりと映し出している。
そのことに胸を撫で下ろしたのも束の間。
「え、……っ、」
腕が引かれる。体が傾ぐ。温かなものに、包み込まれる。
その正体を知るよりも、早く。
「……ありがとう」
という掠れた声が名前の耳に落ちた。「こんな俺でも、認めてくれて」それから、彼は言葉を続けた。
「気づいてたよ、本当は。……この時代じゃ明日がどんな日かってことくらい、……さすがにもう学んでる」
でも、……いや、だからか、と彼は苦笑する。
「だからお前の姿を見つけた時はーー焦った。お前に好い人がいるなんて知らなかったから」
嫉妬したのだ、柄にもなく。だから、思わず声をかけてしまった。その目に自分を映してほしいと願ってしまったのだ、と。
語る言葉は非現実的。夢物語を聞かされている気分だ。
だって、そんなまさか!
気持ちを伝えることしか考えていなかった名前は彼の言葉についていけない。目を白黒させ、されるがまま。
だから彼に「でもやっぱり次からは俺を呼んでくれよ」と言われても、「どうして?」なんて子供っぽい問いを返してしまう。
「どうしてって……」
そこでようやく彼の顔を真正面から見ることができた。
一番美しい春を溶かした瞳。星空を編んだみたいな髪。磨き上げられた大理石の肌。……そこに仄かに宿る灯火。
「気が気じゃないからだよ、俺は心が狭いからな」
たぶんきっと、名前の頬にも同じだけの熱が灯っていることだろう。
でもそんなことはどうだってよかった。
少年のようにはにかむ彼に頷き返すだけで名前はいっぱいいっぱいだったのだから。