ジョルノに想われるU


 室内を覗くと、中にいるのはミスタひとりだった。

「あら、ジョルノは?」

 声をかけ、中へ足を踏み入れる。
 ボスの執務室。大きな窓から差し込むのは穏やかな午後の日差し。涼やかな風は秋の到来と冬の予感を抱かせた。
 ミスタは長椅子に腰かけていた。首を捻り、名前を見上げ、「おお、」と片手をひらひらとさせるその気安さ。歩み寄る名前に、彼は「残念だったな」と笑った。

「ちょうど入れ違いだ」

「そう……」

 名前は肩を落とした。
 ……別に、急ぎの用件はない。ないけれど、ずいぶんと長いこと彼を見ていないような気がした。
 もちろん最近だって仲間内で集まることがある。その時輪の中に彼だけいない、なんてこともない。ただなんとなくそういう風に思えてならなかった。名前には彼の微笑みがどこか遠くに感じられた。あんなにも美しく、尊いと思ったはずなのに。なのに今では朧気にしか思い出せなかった。

「書庫にでも行ったんじゃねぇの?」

「それがいなかったの。この時間ならそうかなって思って先に覗いてみたんだけど」

 ミスタに勧められ、その向かいに名前も腰を落ち着ける。
 その拍子に見えたのは──女性の艶かしい裸体。ミスタの手にある雑誌、その表面を飾る写真に、名前は知らず眉をひそめた。

「いやだ、なんでそんなのここで開いてるのよ」

 ミスタの前には冷えたティーカップがあった。中途半端に残されたカフェ。それはそうなるまで彼の意識が他にあった証拠で、思い当たるものといえば開かれたままの雑誌で。
 ──そこまで熱心に読み耽っていたのだと察し、名前の声は自然責めるものになっていた。

「いいだろ、別に。オレがどこでなに読もうとよォ〜……」

「そうね、その通りだわ。あなたがどんなにいやらしくたって、そりゃあ私には関係ないもの」

 でもここはミスタの私室ではない。この部屋の主はジョルノで、彼は今ここにはいないのだ。となれば自分が言って聞かせるしかないだろう。そう考える名前は責任感に駆られていた。

「ジョルノに変なこと吹き込まないでよね、あなたとは違うんだから」

 彼はフォイボスだ。光り輝くもの。周囲を黄金に染める神さま。彼の前に立つと名前はいつも礼拝堂にでもいる気分にさせられる。それくらいに神聖で、どこまでも美しい人だった。
 そう思っているから名前の目つきも険しくなる。ミスタ。彼のことは決して嫌いではない。むしろ好ましいと思っている。思っている、けれど……それとこれとは話が別。ジョルノに変なことを教えているんじゃないかと疑る声はどうしたって刺のあるものになってしまう。

「なぁに夢見てんだか」

 しかし空想家の名前は一笑に付される。そう言ったミスタは訳知り顔。冷めたカフェに眉根を寄せ、やれやれと大仰に溜め息を吐いた。

「あいつだって男なんだぜ?かわいそーだろ、色々と」

 色々と、の部分に含みを持たせ。片方の口角だけ持ち上げるその仕草。何もかもを見透かすって目。そして何よりその台詞には強い説得力があった。

「……確かに。私に男の子のことはわからないわ」

 なるほど、ミスタの言うことも一理ある。元より性差を持ち出されては頷くより他になかった。名前は女で、それは変えようのないこと。
 こういう時、男だったらと思わないこともない。彼と同じ男だったなら──もっと近づくことができたのだろうか。
 込み上げる羨望と憧憬。それを抑え、しかし広がる思いに嘘はつけない。

「忠告ありがと。でも公私はきっちりわけるべきだと思うわ、……特にあなたはね」

 だからせめてもの抵抗に嫌みったらしく言ってやる。
 「はいはい」耳が痛いと顔を顰めるのを笑って、名前はミスタに持ってきた書類を押しつけた。



 ──それが、今日の午後のこと。

「……と言った手前、気まずいわ」

 名前はひとりごち、静まり返った廊下を歩いた。時刻は既に日付を回った頃。でもジョルノの私室に灯りが残っていたのは確認済み。だから、と名前は渡し忘れた書類を手に足を速めた。
 屋敷は夜の闇に沈んでいた。窓の向こうにかかる月影は雲に滲み、外界は陰鬱たる様相。木々の繁りさえも妖しく、落ちる影は異なる姿を見せる。夜半、それは何故だか心を急き立て、閉塞感から追われるような心地であった。
 だから目当ての扉が見えた時、名前はホッと胸を撫で下ろした。──あぁ、この先には。名前には月明かりを後光にして立つジョルノの姿が容易に想像できた。彼は創造主もかくや。慈愛に満ちた微笑でもって名前を迎えてくれるだろう。

「……ジョルノ?いないの?」

 そう思っていたから、ノックの後にも広がる沈黙に眉を下げた。扉を叩くこと数度。呼び掛けの後も空白。名前は暫し逡巡し、辺りを見回し、それからそうっとノブを捻った。

「失礼、しまーす……」

 音を立てぬようにと忍び足。悪いことでもしているような気分になりながら室内に身を滑り込ます。
 ジョルノの私室は落ち着いた色合いに統一されていた。目立つのは大きな書棚と整えられた机。そして当の本人の姿はといえば、その金糸のみが机上に小川を作っていた。

「寝ていたのね……」

 ほうっと息を吐き、慌てて口を塞ぎ。きょろきょろと周囲を窺ってから、名前は身動ぎひとつしない固まりに近づいた。
 ジョルノは机上に俯せになるようにして眠っていた。腕との隙間から僅かに覗くのは片方の目。緩く瞑られたそれは大人びた容貌を幼く見せていた。
 ジョルノはこんな風に眠るのね、と名前は感動に似た感覚を抱いた。彼のこんな安らいだ顔、初めて見た。果たしてどんな夢を見ているのだろう?彼はどんな時に幸福を感じるのだろうか?

「…………、」

 考えてみれば、名前は何も知らない。これまで歩んできた人生、家族のこと、友達のこと……。彼は多くを語る質ではなかったし、名前も名前で深く訊ねる真似は慎んでいた。そうするのが正しいこと、正しい距離感なのだと思っていた。
 今だってその考えに変わりはない。大切に思うからこそ、下手を打ちたくはなかった。でも同時に知りたいという欲求が存在しているのもまた、事実であった。

「あなたの目に、私はどう映っているのかしら」

 名前はその頭に手を伸ばしかけ──、しかし思い止まり、首を振った。代わりに、羽織っていたショールをその肩にかけてやる。そうすることで自分は役立てる存在なのだと思いたかった。

 ──その気持ちが何処から生まれ出るのか、そんなことには少しの疑問も抱かずに。

 後ろ髪引かれる思いを感じながら名前は部屋を出ていった。