ジョルノに想われるW
室内には奇妙な緊張感があった。それを感じ取りながら名前はどうしてこうなったのだろうと頭の片隅で思った。
肝心の書類を届け忘れたことに気づいたのは、割合すぐのことだった。気づいてから、名前は悩んだ。部屋には昏々と眠るジョルノがいて、彼の眠りを妨げる心配をした。それでもその眠りの深さを信じ、再度足を運んだ。
ジョルノはまだ眠っていると思った。それくらいに辺りは静まり返っていた。部屋の前に立った時も同じだった。
そこで念のため、と僅かに開いた扉から中を窺い見たのがいけなかったのか。
ジョルノは目を覚ましていた。彼は名前が最後に見たときと同じ場所で、しかし何かを抱き締めているようだった。
何をしているのだろう、と思った。思ってから、彼の手にあるのが自分が先刻彼の肩にかけたショールだというのに気づいた。気づいたけれど、戸惑いは晴れなかった。むしろ濃くなり、──いつの間にかジョルノと目が合っていた。
「あの、……ごめんなさい」
名前は書類を中央のテーブルに置き、ジョルノの前に立った。
彼の目はこの夜空のようだった。清く澄み渡り、故に底知れない。名前には彼が何を考えているかなんてちっともわからなかった。ただいつもとは違う、そんな空気だけを感じ取っていた。
名前が頭を下げてもジョルノは何も言わなかった。けれど視線だけは感じ、名前は目を伏せた。所在なく置かれた手は無意識のうちに胸元を握り締めていた。形のない不安が胸のうちには広がっていった。
「えっと、……でもよかったわ。鬱陶しがられてるんじゃないかと思ってたから、その……ホッとしたの」
名前は笑みを張りつけた。でもそれはひどく不格好なものだったろう。
ジョルノはまだ名前のショールを抱いたままだった。不安を抱く名前にとって、それは救いに等しかった。嫌われているならこんな風には扱われないだろう。そう言い聞かせ、近頃彼に避けられているんじゃないかという予感に蓋をした。
聡いジョルノのことだ。きっとそれも見抜いていただろう。
名前はそう考えていたのだが、その言葉にジョルノは目を瞬かせた。「どうして?」と言うように。
だから名前はぎこちない笑みのまま、ジョルノと目を合わせた。
「だって私はあなたのことが好きだもの」
そう言うと、初めてジョルノの表情が動いた。
「……そういうのは軽はずみに言わない方がいいですよ」
口振りは嗜めるようなもの。口許に浮かぶのは苦い笑み。そしてその表情にはどこか強ばりが残っていた。
ジョルノは立ち上がり、名前の手へとショールを突き返した。
「ありがとうございました」口ではそう言うが、返す手には頑なさがあった。瞳はほの暗く、やがてはそれすらも見えなくなってしまう。
ジョルノは名前に背を向け、窓辺へと立った。それは拒絶のように思われた。名前には深い深い隔たりがあるように映った。──何を言ったって彼には伝わらないんじゃないか。そう思えてならなかった。
それでも、と名前は否定のために首を振る。
「軽はずみなんかじゃないわ、ずっとそう思ってたもの」
「本当に?」
「ええ」
間髪入れずに答える。と、ジョルノは口を噤んだ。
ジョルノの向こう側には宵の闇が広がっていた。天にかかるのは朧な月のみ、鉛の色が房のように降っていた。
その中にあって、ジョルノの金糸は燃えるようだった。落日の燃ゆる空。冷え冷えとした大気。身にしみる北風。浮かび上がる影は、背中だけだというのに美しかった。恐ろしいほどに美しく、故にこそ圧倒された。言葉は宙に溶け、思考は霧散した。
──そしてそれは、名前に嫌な既視感を与えた。
「……ぼくには父親がいないんです」
それは独り言に似た調子だった。独白で、答えは求められていなかった。
いったい彼は何を話そうというのだろう?ジョルノが自分の家族について語ったのはこれが初めてだった。少なくとも名前の記憶には一度だって存在しない。それなのにどうして今それを明らかにしようとするのか。父親、と呼ぶくせ、どうしてそんなにも他人事なのか。
「気づいた時には母しかいなかった。父親がどんな人だったのか、ぼくは写真の一枚しか知らなかったんです。……でも、」
──なんとなく、胸騒ぎがした。
暗い予感だった。それは振り向いたジョルノの顔を見て確信に変わった。
「空条さんが教えてくれました。……ぼくの父親が、どんなに恐ろしい存在だったのか」
「ジョルノ待って、」
ジョルノは笑っていた。薄らと刷かれた笑みは寒々しいものだった。空虚で、がらんどうだった。
「ぼくの父親はね、名前、」
「やめて、」
「あなたの大切な人たちを殺した男なんです。ぼくはそんなおぞましいものの血を受け継いでいるんですよ」
──その笑みが自嘲によるものだと名前はようやく諒解した。
「ジョルノ……、」
名前は何事か言いかけ、けれど結局は口を噤んだ。何を言っても慰めにならないように思われた。彼は既に結論を出していたのだ。すべてが遅すぎた。そう思い、悔しさに名前は唇を噛んだ。
二人の間には沈黙があった。秋風は時折窓ガラスを撫で、かそけき音を立てていた。それは啜り泣きのようだった。悲しみだけが名前の中に降り積もった。……たぶん、ジョルノの胸中にも。
泣いているみたいだった。言葉にしたのは彼自身なのに、傷ついているのもまたジョルノの方だった。笑みは痛々しく、瞳には水が張っていた。
「……あなたがどんな選択をしようとぼくは止めません」
それでも最初に口を開いたのはジョルノだった。彼は静かな──静かすぎる声で名前に笑みかけた。
選択、と彼は言った。名前にすべてを委ねると。そう言いながら、しかしその微笑は諦念に満ちたものだった。それは喜劇役者の仮面だった。名前がなんと答えるか、彼の中ではとうに決まっているらしかった。
「……もう私はいらないってこと?」
「あなたのためですよ」
彼は優しく、言い聞かせるように言った。
名前は己の身を抱いた。
なんだかひどく──寒い。冬でもないのに凍えるようだった。去り行く季節を留める術はなかった。誰も止めることはできないのだ。花が枯れゆくように、蜜蜂が死んでゆくように。
──私はこんなにもあなたのことを想っているのに。
「……それなら私、ここに残るわ」
気づくと名前はそう口にしていた。口にしてから、少しの驚きが胸を刺した。でもそれで得心がいった。つまりは──一番大切なのは──そういうことだったのだ。
「驚いたわ、ええ、確かに……私はあの人が嫌いよ。憎いわ、……たぶん、今でも。ずっと、この先だって」
名前はジョルノを見つめた。そうしていると確かに彼は似ていた。荘厳なる面差しや悠然とした立ち姿に想起するものがないといえば嘘になる。
──でも、ジョルノはジョルノだわ。
名前は胸に手をやった。怒りや憎しみは長い月日の果てに穏やかな己の半身となっていた。それはこの先も変わらないだろう。喪ったものの大きさを思えば忘れることなど許されない。許されないし、……ずっと、『彼』のことだけを想っていたかった。
そうすれば他のことなんて考えずに済んだ。人はきっと逃避と呼ぶだろう。名前自身も理解していた。『彼』を理由にして、難しいことを考えないようにしてきた。過去だけを見ることはとても簡単で、心地のいいものだった。
──それでも。
「でもそれがなんだっていうの?私はあなたに救われたわ、感謝もしてる。大切な仲間だって思った。そう思ってるもの、今だって。だから……その気持ちを嘘になんかしたくない」
それでも──それよりも、今目の前で傷ついているジョルノをそのままにはしておけなかった。
『彼ら』から背を向け、まるで離別を告げるような気分だった。口にするそばから胸はきりきりと痛んだ。
けれどそれを悟られるわけにはいかない。名前は眼差しを強め、唇を引き結んだ。断固とした意志を示したかった。
「本当に、あなたという人は……」
暫しの沈黙ののちに。
ジョルノはくしゃりと顔を歪めた。
「聖書通りの人だ。『憎しみは争いを引き起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう』……でしたっけ」
「え、ええ……そうよ、『同じことを繰り返して言う者は、親しい友を離れさせる』って……」
それは箴言の中の一節。第十章および十七章にて登場する言葉だった。
『善をもって悪に打ち勝ちなさい』『悪に報いてやろうと言ってはいけない』そうした格言を思い出しながら、名前は戸惑いを隠せなかった。
「友、ですか……」そう言ったジョルノが、吐き捨てるようだったから。
「ぼくがあなたを友人だと思ったことはただの一度もないですよ。たぶん最初から、ぼくは……」
そこで言葉を止め、ジョルノはふとどこか遠くに目を馳せた。寂しげに、悲しげに。どこか遠くの……過ぎ去った過去を思うような目だった。
「……ジョルノ?」
その様子がなんだか怖く感じられて、名前は恐る恐る名前を呼んだ。そうすると瞬きの後でまた視線が交わった。
それは名前が望んだことだった。なのにその目の暗さに、名前はたじろいだ。ほの暗い焔がちらちらと揺れているように見えた。
きっと錯覚だろう。灯りが映って、そう見えただけ。
けれど、「でも名前、」と続けたジョルノ。その持ち上げられた口角、影の落ちる輪郭に、不安を拭うことはできなかった。
「悪魔の誘惑に屈して肉欲に身を任せるのは罪深いことなんでしょう?神から遠ざかる、破滅の道だって」
「……何を言いたいの?」
「名前、」
──これ以上、聞いてはいけない。
ここに至り、名前にはもう彼の言いたいことがわかるような気がした。彼が何を明らかにしようとしているのか、何を告白しようとしているのか。少し考えればすぐにわかってしまいそうだった。知ってしまったらもう戻れない。そんな予感があった。そしてそれを望んでいるのか拒んでいるのか、名前にはわからなかった。混乱する名前には、ジョルノを止めることができなかった。彼の唇が動くのを、息を詰めて見守ることしか。
「ぼくはあなたをただの友人だとは思わない。もっと薄汚い……身の毛もよだつほどおぞましい感情をあなたに抱いているんだ」
吐き出したジョルノは、深い深い息をついた。肩の荷を下ろしたような様子だった。でも少しも身軽に見えなかった。むしろ目許に落ちる影は深まり、一層の痛ましさを名前に感じさせた。
「幻滅した?」
ジョルノは精一杯の気安さで名前に笑いかけた。引き攣る膚が痛々しかった。ぎこちない笑みを取り払ってやりたかった。
「……わから、ないわ」
でも立ち竦む名前には首を振ることしかできなかった。
そんな名前に、ジョルノは「そう」と小さく顎を引いた。
──そう。……でも、
「あなたはそういうの嫌いでしょう?」
「でもだからってあなたまでもを嫌いにはなれないわ」
名前は喘ぐようにして答えた。何故だかひどく息苦しい。それはジョルノを見つめるとなおのこと。
「……嫌ってください」
微笑む彼を見るたびに、名前の胸は塞がる思いがした。
「嫌って、憎んで。それでぼくから離れていけばいい。道は二つです、名前。どちらかしかあり得ないんですよ」
「ジョルノ……」
歩を進め、目前に立つ青年を名前は見上げた。
それは幼子に言い聞かせる声音だった。でもどこか哀願にも似ていた。縋るような眼差しだと思ったのは、名前の願望だけだろうか?
「それなら、わたし、私は……あなたを選ぶわ」
……そうではないことを祈りながら、名前はジョルノの手を取った。殆ど無意識のうちに、夢心地のままに。彼の手を握り、その肌が真冬みたいに冷えきっていることに泣きたくなった。
「……同情はよしてください。お互いのためになりませんよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
言い淀む彼に、名前は駄々っ子のように「だってわからないわ」と言葉を返す。
「私……確かにあなたの言う通りこれは同情なのかもしれない。烏滸がましくも哀れんでいるだけなのかもしれないわ。でも今の私にはわからないの。私にわかるのはただひとつ、」
名前は触れた肌の温もりに愛おしさを感じていた。それは純然たる事実で、真実で、唯一の寄る辺だった。自分の選択が心に従った故のものであると確信が持てた。
だから──もう躊躇ったりなんかしない。
「今のあなたから離れていくことなんて、この手を離すなんて、そんなの絶対できないわ。ここで引き下がるなんて選択肢は最初からないんだもの」
睨み据える勢いで見つめる。
と、不意にジョルノの瞳が揺れた。
「……じゃあ受け入れてくれるんですか?今ここであなたを組み敷いても?あなたの膚を暴いても?」
「ええ、そうよ」
明け透けな物言いに動揺しないわけじゃない。でも怯んだら敗けだ。名前は引きそうになる足を押さえつけ、床を踏み締めた。そして固く頷くと、今度こそジョルノは苦悶を露にした。
「そんなこと言わないでくださいよ、ぼくはあなたを傷つけたくはないんだ」
その語尾は掠れていた。ともすると噴出しそうな何かを抑えるように。苦しげに、切なげに。
なのに頑ななまでのその態度。「……っ、だったらッ!」──名前は、自分の頭に血が上るのを感じた。
「試してみればいいじゃない!私が傷つくか、この身体を使って試してちょうだいよ!」
カッとなった、その勢いのままに。名前は握っていたジョルノの手を引き、その唇に噛みつくようなキスをした。
感触なんてあってないようなものだった。ぶつかった歯の方が痛むくらいだ。たぶんジョルノにとってもそうだろう。彼は驚きに目を見開いたまま。呆然と名前を見下ろしていた。それを見ていると激情も和らぎ、名前はジョルノにそっと身を寄せた。
「……ね、どう?私、傷ついてるように見える?」
「……いいえ、」
「……なら、大丈夫よ」
名前は微笑み、言葉を続けた。
「大丈夫よ、ジョルノ。私、たぶんあなたのことが好きなんだわ」
「なんですか、それ……」
やっと笑ったジョルノに、胸中が温かなもので満たされる。
だからきっと自分の考えは間違っていない。何を捨て去っても守りたいと思った。それだってきっと愛情だ。何が愛であるかなんて、自分自身で決めればいい。他の誰に否定されたって、今自分の中にある感情こそが彼への愛なのだと名前は思った。
「ごめんなさい、名前……」
苦しげに懺悔するジョルノに、「謝るなら私の方よ」と名前は笑った。
その目許を、輪郭を指で労るようになぞる。そんなささやかな触れ合いだけで幸福感を覚えた。
「なんにも知らなかった。気づきもしなかったわ」
「知られないように苦心してましたから」
「……じゃあもう苦しむ必要はないわね」
「名前……、」
腰に回された手に力が籠る。掠れた声は低く、鼻先を擽る吐息は熱を帯びていた。
名前はジョルノを見た。その目には焔が揺れていた。見間違いなどではなかった。……錯覚じゃなくてよかった、と名前は思った。
「好きです、あなたを、あなただけを、ずっと。……愛しています」
切迫した声だった。張りつめ、今にも切れてしまいそうな糸。歓喜と、怯懦の滲む目。こんな風に自分を見つめる人を、名前は今の今まで知らなかった。濡れた眼差しが、こんなに心地いいことも。
不思議な穏やかさの中で名前は目を閉じた。是と答えるために背中に回した手。触れた瞬間、びくりと震える彼が愛おしい。だからもう、不安はなかった。