リゾット√


【もしも暗殺チームに拾われていたら】





 静寂に見え隠れする陽気な鼻唄。台所から聞こえ始めた音色にリゾットは顔を上げる。
 手元には紙の束。組織から下されたつまらない命令。そのために必要な資料ではあったが、逡巡の末にリゾットの手はそれを片付け始めてしまう。気分が削がれた。ただそれだけの理由で。リゾットは席を立ち、自室を出た。
 暗殺チーム。そのアジトはネアポリスの中でも日の届かない場所。青空なんてものとは程遠く、リゾット自身も長らくその光を忘れていた。
 ……けれど。

「うーん……もう少し色をつけた方が良かったかしら。でもあんまり揚げるのもダメなのよね」

 リビングを抜けた先。キッチンには小さな明かり取りから柔らかな冬の日差しが差し込んでいた。そしてその光の中でひとり、少女が佇んでいた。

「名前、」

 名前を呼ぶ。意識をするより早く。名前を呼び、その瞳に照らされることを望んだ。

「リゾット、ちょうどよかった」

 振り返る。その瞬間すらも絵画のよう。眩い金の髪と穏やかな微笑はリゾットに故郷を思い出させた。故郷、シチリア島。その美術館にあった小さな絵画を。何もかもを受け入れる聖母の姿を想起させた。

「お昼ご飯作ったの。よかったら食べて」

「あぁ……、アランチーナか」

 名前の小さな手。皿の上にはオレンジ色のライスコロッケ。そういえば昼食の時間だったかと視界の隅にある時計を見る。
 集中すると周りが見えなくなるのは悪い癖。とはいえここに危険はない。自分と名前。その二人しか今このアジトにはいないのだから。
 そこまで考え、はたと思い至る。
 彼女は「よかったら」と言った。遠慮がちに、慎ましく。けれど皿に並べられたアランチーナの数は女一人で食べる量ではない。最初から彼女はリゾットのことを念頭に置いていたのだ。
 そのことに気づき、リゾットの口元は知らず緩やかな弧を描く。

「……いただこう」

 名前を手伝い、テーブルに皿を並べる。アランチーナにパネッラ、クッチア。それは今日この日に相応しいメニューだった。十二月十三日。聖ルチアの日。シチリアの一部地域ではアランチーナの日とも呼ばれるこの日には。
 だからーーだろうか。
 コーヒーを淹れる音。流れるような所作で切られる十字。紡がれる祈りの言葉。慣れ親しんだ、けれど忘れかけていた音色。平和で、穏やかな午後。

「……懐かしいな」

「え?」

「……子供の頃は朝からこれを食べていたのを思い出した」

 ーーこんなにも、心が安らかなのは。
 呟いたのは思いもがけず。無意識の内に零れ出した言葉に、リゾットは内心驚いていた。
 しかしそれは密やかに。目を瞬かせたのは虚を突かれた名前だけ。そんな彼女も続くリゾットの言葉にふわりと頬を緩めた。

「そうなの?意外。今はそんなに食べないわよね、どちらかと言えば少食な方でしょう?」

「そうだな、歳を取ったということか」

 それほどまでに遠いところに来た。そう、リゾットは苦笑する。
 自覚はある。今の自分が幼い頃の自分に顔向けできる状況でないことくらい。裏街道に身を落とし、その上強者に使い潰される地位に甘んじている。子供からすれば嘲りの対象でしかないだろう。
 けれど後悔はない。例え時間を巻き戻したとしても同じ道を選んだろう。だからリゾットは自分を哀れに思うこともなかったし、現在を恥じ入ることもなかった。ただ静かに受け入れていた。今までも、これからも。

「……名前?」

 なのに彼女はーー名前は呑み込めないといった風であった。何事かを言いかけ、躊躇って。

「あぁ、いえ、なんでもないの」

 名前を呼ばれたことで我に返り、慌てた様子で手を振る。
 なんでもない。それが嘘であろうことは容易に察しがついた。彼女は聡明であったけれど、打ち解けた者には容易く心を触れさせる。つまるところ隠し事ができない質なのだ。
 だからこの時も彼女が躊躇し、言葉を呑み込んだのだとリゾットにはわかった。
 別にそれを咎め立てするつもりはない。話したくないのならそれでも構わなかった。名前の意思を尊重したかったし、何事も詳らかにしようというのは子供じみているとも思っていた。
 ……が、それは思考上の話。体の方はままならぬもの。特に、瞳というのは。時に言葉より雄弁に語るもので、リゾットもまた類に漏れず。

「……本当に、大したことじゃないのよ?」

 気になると、知りたいと。言うのは唇ではなく眼差し。無言の催促。故に名前は困ったように眉尻を下げながらも、そっと口を開いた。

「あなたを見てると大人になるのもいいかなって……、ううん、あなたみたいな大人になりたいと思えるの」

 ……今度こそ、驚きを隠せない。
 想像だにしない台詞。言葉に、リゾットはしばし戸惑う。呑み込めず、沈黙すること一頻り。

「……そんな立派なものじゃないだろう」

 その静けさに名前が居心地悪く身動いだことで、時間は流れ出す。
 だがようやっと出てきたのは素直なようで素直じゃない言葉。リゾットにとっては正直な感想であったけれど、名前のが褒め言葉であったのに違いはない。ここは反論せず受け入れた方が大人らしかったろう。
 しかしそんなリゾットに。

「あなたにとってはね。でも私にとっては違うの。それだけ、……それだけの話よ」

 名前が浮かべるのは柔らかな微笑。
 彼女は多くを語らない。何が彼女の心を揺さぶったのか、リゾットに判じることはできない。そう、想像することすら。

「そりより。さぁ、食べてみて、ね?さっきからあなたのお口に合うか気になってしようがないのよ、私」

「あ、あぁ、悪い。そうだな、……いや、お前の料理が不味かったことなどないだろう」

「……不意打ちで褒めるのは卑怯よ」

 しかし今この時を尊いと、愛しいと思っているのは間違いのないこと。リゾットも、そして名前も。
 拗ねるように口を尖らせ。しかしすぐに彼女は表情を蕩けさせる。甘やかに、無邪気に。冬の澄んだ空気。果てのない空のような瞳で名前はリゾットに笑みかける。なんのてらいもなく、親愛の情を溢れさせて。








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アンケートより、リゾットとのお話でした。コメントありがとうございます!