懺悔室�T


 若葉の繁る五月、気持ちのいい風の吹く中、しかし名前が向かったのは杜王町で一番大きな病院だった。
 その病棟、個室の一部屋をノックする。が、返ってくるのは沈黙だけ。でも名前は気にしない。彼にとっては沈黙こそが返事なのだとこの一週間で学んでいた。

「なんだよ、君か」

 病室の主、岸辺露伴は名前を見るやいなやこの一言。ちらりと一瞥をくれただけですぐに視線は手元の本へと向けられる。
 「冷たいわね」名前は口を尖らせた。「看病してあげた仲じゃない」恩着せがましく言ってやると、露伴は顔を顰めた。

「別に頼んでない。君が勝手にやったことだろ」

「手厳しいなぁ、露伴先生は」

 やれやれと溜め息。でも本当に気分を害したわけじゃない。露伴は出会った時から『こう』だった。だから今更だ。
 名前は冷ややかな目を受け流し、ベッド脇の椅子に腰かける。すると露伴の持つ本のタイトルが目に入った。

「あら露伴先生、イタリアに行かれるの?」

「おい許可なく覗くな」

「まぁまぁいいじゃないの」

 身を乗り出せば、見えるのは紙面に広がる青色。水上都市ヴェネツィア。露伴が熱心に読んでいたのはイタリアの旅行誌だった。

「でもそれはまだよしておいた方がいいんじゃないかしら。体、痛むでしょう?」

「ふん、どっかのくそったれのせいでな」

 体中包帯に巻かれていても口は減らない。そもそも先に手を出したのは露伴の方だというのに、彼は仗助への恨み言を繰り返す。それだけ元気なら旅行くらいわけないのかもしれない、と名前は笑った。

「案内しましょうか。これでも私、イタリアとは馴染みがあるの」

「……そうだな、いいかもしれない」

 余計なお世話だ、と言われるつもりだった。露伴ときたら憎まれ口を叩くのが常で、それが面白くてしつこく構う名前をいつもいつも迷惑がっていた。
 なのにこの時だけ露伴は僅かに顎を引いた。いいかもしれない。そう呟いて、名前の提案を一考した。
 そして次に顔を上げた時、彼の口角はつり上がっていた。

「よし、そうと決まったら早速チケットを取ってくれ。もちろん行き先はイタリアだ」

「何言ってるの、まだ退院は許可されてないわ」

「それをどうにかするのが君の仕事だろ」

「わー横暴だー」

 あまりの無茶振りに思わず拍手を送ってしまう。しかし露伴は一顧だにしない。鼻を鳴らし、「嫌ならそれでいいんだぜ」と言う。

「だがぼくはこの一月(ひとつき)を無為に過ごす気は毛頭ない。漫画が書けないんだ、それならそれでやるべきことはある。これでも多忙な身なんでね」

「うっ……」

 嫌みったらしく宣う露伴に、しかし名前は二の句が継げない。
 というのも露伴に対しては少々罪悪感というものがあった。彼を見舞うようになったのもそのためだ。
 漫画家、岸辺露伴。彼がスタンド使いになったのは、かつてDIOの手にあった矢が原因だ。スタンド能力を発現させる弓と矢を追って、名前たちは杜王町にやって来た。
 もっと早く矢の存在に気づけていたら──そう考えると、露伴の怪我も自分に遠因があるように思えてならなかった。

「……もう、しょうがないなぁ〜」

 だから、露伴には強く出られない。
 名前は不承不承の体で頷いた。なんだか手のかかる弟を持った気分だ。弟──なら、多少のわがままを許してあげても不思議じゃないだろう。

「とりあえずミラノまででいいかしら?それならヴェネツィアまで三時間くらいで行けるわ」

「なんでもいい、適当に予約しておいてくれ」

「はいはい。それじゃあ露伴先生はホテルでも決めておいてくださいな、たぶん着くのは夜になると思うので」

 それも他人任せにするかと思いきや、「わかった」といやに素直な反応。案内人として一応は信頼されているのか、それともホテルには興味がないだけか。
 ずっとこうだったら可愛いのにと思いながら、旅行プランを練る露伴を眺める。そんな名前の口許には知らず笑みが浮かんでいた。





「いいですか?くれぐれも、くれぐれも勝手な行動はよしてくださいね!わかりましたか、露伴先生!」

「わかってるよ、だからそう大声を出すなって」

「だって全然信用できないんだもの……」

「オイオイオイオイ君はぼくをバカにしてるのか?」

 ミラノ、マルペンサー空港。地上三階、地下一階、イタリアの玄関口のひとつは多くの人で賑わいをみせていた。さすがは名高い観光地である。
 露伴が選んだのは十八世紀創業の歴史あるホテルだった。かつてはヴェルディも宿泊したことがあったんだとか。漫画家の露伴が選ぶのも納得である。
 が、いざそのホテルへ向かうという段になって、露伴は空港に屯するもぐりのタクシー(白タク)に声をかけた。お陰で名前は大慌て、必死で彼を怪しげな中年男から引き剥がした。こんなことならいくら頼まれたからって治療までしてあげるんじゃなかったとすら思った。
 だというのに当の本人ときたら不満顔。『いい経験になるかもしれないじゃあないか』というのが露伴の主張である。なんでもかんでも漫画のネタにしようとするのが彼の悪い癖だ。

「いくらスタンドがあるっていったってああいう連中に声をかけちゃいけません!盗られるのはお金だけじゃあないんですからね!」

「だからわかったって言ってるだろッ!?」

 正規のタクシー乗り場、連なる長蛇の列。その中で名前は露伴と舌戦を繰り広げていた。羞恥はない。日本語だからどうせわからないだろうと名前は内心で開き直っていた。

「まったく、君は口煩い母親か?」

「母親ならよほど良かったわ。そうすればあなたの首根っこ引っ付かんでても奇異の目で見られなかったでしょうに」

「勘弁してくれ、そんな囚人みたいなの絶対にごめんだね」

 などと下らない言い合いをするうちに順番が回ってくる。荷物をワゴン車の後ろに積み、ようやく人心地つく。

「なぁ、運転手に急げって言えよ。だいぶ時間を無駄にしたからな」

 なのに車に乗り込んだ途端にこれだ。急かす露伴に、名前は額を押さえる。ちょっとは大人しくできないものか。

「そんなの必要ないわ。頼まれなくたってそうするのがこの国のタクシーだもの」

「それならいいが」

 信じていない風の露伴だったが、実際にタクシーが走り出すと口を噤んだ。
 勢いよく飛び去る景色。左右に振れる体。レースにでも参加してるんじゃないかって思うくらいの速度で夜の街を駆け抜けるタクシー。その乱暴な運転に、露伴は目を輝かす。

「なるほど、これが噂の……。いいね、予想以上だ」

 「何かに使えるかもしれない」と露伴はスケッチを始める。この人の頭の中には漫画しかないのだ。そういう時の眼差しは真剣で、好感が持てる。

「……だから嫌いになれないのかしら」

「ん?何か言ったか?悪いけどしばらく集中させてくれ」

「はぁい」

 名前は露伴を眺めた。車窓でもなく、隣に座る青年のひた向きな横顔を。ホテルに着くまでの間中、飽くことなくずっと見つめていた。