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その日の夜、デンジくんはテーブルに置かれたステーキに歓声を上げる。その日の夜、デンジくんは食べたばかりのものをトイレに吐き出す。
「無理しなくていいんだよ」
私は踞るデンジくんの背中をさする。無理して元気なフリはしなくていい。つらいならつらいと言ってくれていい。
「いけると思ったんすけど」デンジくんはへらりと笑う。しかしその顔は青白く、口端からは胃液が伝う。トイレに蔓延するのはつんとした刺激臭。私はデンジくんの汗ばむ体を抱き締める。
「大丈夫だよ、大丈夫」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。私は何度目かの問いを自分に投げ掛ける。どうしてこんな、デンジくんばかりが苦しめられなきゃならないんだろう。アキくんはデンジくんの幸せを願っていた。私も、デンジくんにこれ以上の悲しみは味わわせたくないと思う。
「デンジくん、立てる?」
「ん……」
私はデンジくんに水を飲ませてやる。立ち上がらせ、洗面所まで移動し、うがいをさせ、多くのものを洗い流した。そうすると少しは顔色も良くなった気がする。ただそれが気休めに過ぎないことは私もわかっていた。
「ちょっと、夜風にあたろうか」
提案すると、デンジくんは小さく頷く。まるで子供だ。言われるがまま、そこにデンジくんの強い意思はない。私はデンジくんに上着を羽織らせた。秋の夜は冷える。
パワーちゃんには「コンビニに行ってくるね」とだけ声をかける。
「何か欲しいものある?」
「肉系のおにぎり!」
パワーちゃんは食欲旺盛だ。彼女だけでも元気でよかった。私は「了解」と笑って、家を出る。
外は月明かりのお陰で思ったよりも暗くない。私はデンジくんの手を引いて、歩く。時おり虫の声が聞こえる以外は心地のいい静けさが流れていた。
「だいぶ涼しくなったね」季節は巡る。たぶん、人類が滅亡したって。知らん顔して、世界は回る。私はそういうことに寂しさを感じる。
「あ、コンビニ寄らなくちゃ」
光に吸い寄せられる虫と同じに、私たちはコンビニへ向かう。真っ先に足を向けるのはおにぎりの棚。肉系のおにぎり、肉系のおにぎり……肉巻きおにぎりと唐揚げおにぎり、どっちがいいのかな。迷った末、私は二種類ともカゴに入れる。
「デンジくんはどうする?」
「んー……アイスにする」
デンジくんはソーダバーを手に取る。もうそろそろアイスの季節も終わると思うけど、「寒くない?」私が聞くと、デンジくんは首を傾げる。そんなこと考えたこともなかったらしい。私はホットコーヒーを買うことにする。寒いのはあんまり得意じゃない。
「そこの公園に寄ってこ」
枯れ葉が鳴るのを楽しんでから、ベンチに座る。繋いでいた手を離すと、一瞬追いかけるようにデンジくんの手が泳いだ。
──かわいい、なぁ。
私は笑って、デンジくんの肩に寄りかかる。手の中のコーヒーよりもずっと、温かい。人間の肌というのはどうしてこうも心地いいのか。
晩秋の夜風はさやかに頬を撫でていく。私はぼんやりと空を仰いだ。そこには瞬く星々と真っ白な月の他に何も存在しなかった。美しいもの以外は、何も。
暫しの間、私たちを取り巻くのは沈黙だった。穏やかな沈黙。デンジくんは黙々とアイスを頬張っていたし、私には考えるべきことがいくつかあった。これまでのことや、これからのことを。
考えているうちに、私は私を見下ろす月が人の顔をしているように思えてきた。ああほら、そこに眼窩が、鼻筋が、唇の形が見てとれる。私たちを見下ろす、青ざめた月。美しいはずなのに、なんだか寒気がする。
私はぶるりと体を震わせる。どこにいても月は私たちを追いかけてくる。どこにいても月は私たちを監視している。どうしてそんな連想をしてしまうのだろう?夜の女王が、今は恐ろしい支配者に思えてならない。
「デンジくん──」
私が振り返るのと、デンジくんが嘔吐くのはほぼ同時だった。
デンジくんは小さく呻くと、口許を覆った。でも吐き出されたものまでは塞き止めきれなかった。ドロリとしたそれはデンジくんの腕を伝い、膝の上にシミを作った。
なのにデンジくんは、彼は少年の面差しを残した顔を歪めて、笑った。「すんません」汚してしまった、と謝る姿に、私はいてもたってもいられなくなる。
「そんなの、気にしなくていいんだよ」
私はデンジくんを抱き締める。冷え冷えとした月明かりから隠すようにして、彼を抱き締める。
汚れるだとか、戸惑いの声が上がるだとか、そんなのはどうだっていい。今はただ、この健気な少年を抱き締めてあげたかった。
「どうかもう、自分を責めないで。キミのせいだなんてことは、なんにもないんだから」
「けど、俺、俺ァ、アキを、」
──俺が、アキを殺したんだ。
デンジくんはそう言って、また呻いた。もう吐き出すものなんてないはずなのに。彼はまるで懺悔でもするかのように、己を罰するように、嘔吐する。
私はそんな彼を受け止める。「違うよ、デンジくん」否定するために、彼の背中を撫でる。
「魔人の人格は悪魔だ。そう教えてくれたのはアキくんでしょう?だからキミが殺したのはアキくんじゃない。キミは銃の魔人を止めてくれたんだ」
デンジくんが行ったのは救いだ。アキくんの体で、アキくんの願いとは裏腹な行動をする魔人を止めた。それがアキくんにとって救いでなくてなんだというのだろう?デンジくんの行いは、少なくともアキくんにとっては正しいことだった。
そう言っても、デンジくんは首を振る。「けどアイツは、俺の名前を呼んだんだ……」それは、体に残る記憶だ。アキくんの記憶に影響を受けた魔人が呼んだだけ。けれどそんな言葉にどれほどの価値があるだろう。デンジくんは自分の名前を呼ぶ魔人を殺した。それが彼の心に暗い影を落としている。
「だとしても、キミのせいじゃない。キミだけのせいじゃない」
デンジくんがアキくんを救えなかったと悔やむなら、私だって同じだ。信仰の悪魔だって、なんの役にも立ちやしなかった。アキくんの思いを、願いを知っていたのに。なのに私は、アキくんのためになることを何ひとつだってできなかった。
そんな私こそが罪を償うべきだろう。罪人は、デンジくんじゃない。──私だ。
「キミが罪の意識を感じるというなら私が赦すよ。キミは悪くないって、何度だって言い続ける。それでもダメなら、キミが罪の意識に潰れてしまうというなら、その罪を私にも背負わせてほしい」
「なんで……」
身動ぐ気配。私は少し体を離して、今度はデンジくんの頬に手を添える。かさついた肌、冷えきった顔。輪郭に指を這わせ、強ばった瞳に焦点を合わせる。
「キミが、好きだから」
囁くと、大きな目がくしゃりと歪む。
「俺、俺は……」
「大丈夫、大丈夫だよ」
私はまたデンジくんを抱き締める。先程よりも強く。彼が何者にもおかされないように、強く。抱き締め、そっとその頭を撫でた。
「名前さん、」デンジくんは喉を詰まらせ、空気を震わした。でも音はない。時おり小さく鼻を啜る以外は、何も。彼は、とても静かに泣いた。
「冷えて、きちゃったね」季節は巡る。立ち止まる私たちを置き去りにして、落莫たる風が吹く。だから私たちは身を寄せ合うのだ。ひとりでは、寂しすぎるから。
「家に、帰ろう?」
こくりと頷いたデンジくんの手を取って、もと来た道を戻る。
月明かりに照らされた道。違うのは、デンジくんが私の手を握り返してくれたということだけ。ただそれだけのことが、今の私には大きな救いとなった。