とれ!


 真澄賢悟は怒っていた。無論その相手は轟大愚である。そも、真澄の思考のうち半分を占めるのがこの男であり、もう半分は最愛の妹であった。後者に対して愛おしいと思いこそすれ怒りなど湧くはずもない。となると自然、怒りの矛先は轟以外に向かいようがなかったのだ。
 轟大愚は天才である。これは真澄も認めるところであり、周知の事実であった。その上でこの男は人の神経を逆撫でする天才でもあった。これもまた真澄を含めた周囲の者すべてが異論を唱えるところのない事実だった。知らぬは当人ばかり……いや、知ったところで改めようともしないだろう。それが轟大愚という男だ。
 真澄は轟の性格を熟知していた。していたが、真澄は天才ではない。天才たる轟が傍若無人に振る舞った結果、多くの野球部員が休部を申し出る未来までは見通せなかった。
 真澄は怒っていた。と同時に焦ってもいた。このままじゃマズい。轟大愚は天才だ。天才だが傲慢で怠惰──そう、高校球児として大事な『好感度』という面が欠落していた。このままでは轟を完全アウェイの中出場させることになってしまう。それで傷つく男であったら可愛げがあるが、まぁ間違いなくそんなことはないだろう。真澄が危惧するのはただ一点。轟大愚(天才)が本領を発揮できない──なんてことは許されないし、許しがたい。それが今現在の真澄を衝き動かす動機であった。

「──というわけで、ここの機材を貸してもらいたい」

 放課後、野球部が休みの日を選んでやって来たのは文化部の集まる校舎の一角。『映画研究部』なるプレートのかかったドアを引くと、十人ほどの生徒の視線が一斉に真澄へと集まった。
 が、そこで怯む真澄ではない。様子を窺う視線を掻い潜り、窓際の椅子に座る女の前に立ち、事情を説明した。野球部の現状とそれを打破するために広告を打たねばならないということを。それにはこの部が所持している機材を借りる必要があるということを。
 女が映研の部長であることは知っていた。今後どう立ち回るべきか苦慮する真澄に、二年の野球部員が教えてくれたのだ。映研なら求めているものが揃っていること、そこの部長は『なんちゃら学生映画祭』やら『なんちゃら映画コンクール』やらで受賞歴があるからもしかすると手助けしてもらえるかもしれない、ということを。
 真澄としては一人でやり遂げるつもりだったので、機材さえ貸してもらえればいい。それも無理なら野球部の部費から拝借させてもらおう。そんな心持ちであったから、お願いする立場にしては少々──いや一般的に見ればかなり──居丈高だったかもしれない。実際、脇にいた平部員たちは「なんだコイツ」「野球部ってやっぱヤバいわ」と囁き合っていた。
 しかし真澄の耳には入ってこない。何しろ彼らは自分より野球が上手いわけではないし、用があるのは部長である眼の前の女だけだったから。
 そして彼女はといえば──

「……なるほど、面白いことを考えるね」

 真澄の言葉にくつくつと肩を震わし、「いいよ、好きに使って」と快諾した。あまりにもあっさりしたものだから、真澄の方が肩透かしで「いいのか、本当に?」と念押ししてしまう。

「あ、うちが貧乏だからって施してるつもりか?こういうのって高いんだろ。それくらい俺も知ってる」

「私はキミの家庭事情なんか知らないよ。そしてキミの言う通り、ここにはそれなりに高価なものが揃ってる。たとえばそこの三脚なんかは修理代だけで小さなカメラ一台分はする。もちろん壊したら弁償してもらうからね」

「……わかった」

 真澄にはカメラの良し悪しなどわからないし、金額など想像もつかない。それでも快く貸してくれると言うのだから、この女は悪いヤツではないのだろう。そう、真澄は思った。

「それで?どんな動画を撮るのかは決めてあるの?」

 女はテーブルの上で組んだ腕の上に顔を乗せた。「ん?」と小首を傾げて真澄を見上げる眼は何の変哲もない茶褐色。……のように見えて、少し金色がかっているのがわかった。だからどうということもないのだが。だが、真澄はいつか見た夕焼けのことを思い出していた。

「アンタには関係ないだろ」

「あるよ。だって、さっきも言ったでしょう?」

 女は目を弓なりにして、真澄のネクタイを引いた。
 それは不意のことだった。たとい天才だったとて瞬時に反応できる類のものではなかった。真澄は引き寄せられるがまま、ガタリとテーブルに手をついた。
 冷や汗をかく真澄に構うことなく、女は耳元に唇を寄せる。

「キミの好きに使っていいんだよ。……私のことも」

 声量の抑えられた、けれど笑みを含んだ声。耳朶を掠めた唇の柔らかさ、首筋から薫る甘やかな匂い。
 思いがけない熱に、真澄は弾かれたように距離を取った。思わず抑えた右耳が熱い、……気がする。
 そこではじめて真澄は眼の前の女を認識した。一学年上の先輩。眉の下で切り揃えられた前髪と、対照的に長く伸ばした後ろ髪は緩やかに波打っている。片手で掴めてしまいそうに細い首は白く、全体的に華奢な造りの身体は妹と似ていると思った。

「やっとこっち(私)を見たね」

 悪戯っぽく笑う女は「改めて、」と右手を差し出した。

「私は名前。キミの共犯者になる女だよ」

 真澄は「あぁ」とも「うん」ともつかない返事をして、誘われるがままに名前の手を握った。外野が「いいんですか部長!」「今の野球部なんてロクな噂聞きませんよ!」などとやいやい喚いているようだがやっぱり気にならなかった。真澄にわかるのは、彼女が協力してくれるらしいということだけだった。

「いいじゃない。ちょうどドキュメンタリーものを作りたいって言ってたところでしょう」

 それはまさしく鶴の一声。名前の言葉に、不平不満を述べていた部員たちは押し黙る。ここでもやはり実力主義が罷り通っているとみた。……うん、分かりやすくて実にいい。

「ほら真澄くん、座って。さっそく企画を詰めていこう」

「あ、あぁ」

「まずは彼……轟くんのことを教えてもらえる?」

 問われた真澄は、『待ってました』と小脇に抱えていた書類の束を机の上に積み上げた。

「これが内申書の写し、これが受験の時面接での受け答え、これが中学の卒業アルバムで、卒業文集……。高校での様子については必要ないかとも思ったが、これが野球部の部員からの聞き取りで、こっちの写真は轟が練習をサボっている様子だ」

 真澄がこれだけの資料を用意してきたのには訳がある。機材の貸し出しを断られた場合、どれだけ野球部が困っているのか、どれだけ轟という男が規格外なのかを知ってもらう必要があったからだ。
 またも外野は喧しいが、どこ吹く風。名前は興味深そうに資料を捲っていく。他者を気にかけない姿勢は真澄の目に好ましく映る。やはり才能のある人間はこうではなくては、と。

「真澄くんとしてはプロモーションビデオを打ち出して轟くんの好感度を上げたいところなんだよね?具体的にはどういった方向でイメージアップを図りたいの?」

「轟は強豪校からのスカウトを蹴ってここに来た。その点を活かしていきたいと考えてる」

「『権力への反逆者』か。いいね、大衆好みだ」

 名前はテーブルにあったまっさらな紙に、ここまでの内容を走り書きで纏めていった。一番上に書かれているのは『天才・轟大愚はなぜ野球の強豪校を選ばなかったのか(仮)』の一文。これが企画のタイトルらしい。
 「あくまで『仮』だからね」あとでちゃんとしたタイトルは考えよう、と顔を上げることなく名前は言う。
 動画の時間は四分弱。「ショートフィルムを想定しているけど、これよりさらに短いバージョンも編集で作るつもりだよ」最近の若者は一分にも満たない動画を垂れ流しで見るのが習慣になっているらしい。流行り廃りの分からぬ真澄には「そういうもんなのか」と相槌を打つことしかできない。

 ──この人に頼ったのは正解だったな。

 口にはしないが、真澄は思った。

「キャストは当然轟くん……になるけど、彼の出演許可は、」

「まず無理だろうな」

「わかった。そこも編集でカバーしよう。あとは……そうだね、他の部員たちは出てくれそう?」

「たぶんノリノリでやってくれると思う」

「じゃあインタビューメインで回していこうか」

 名前は『出演者』の項目に『轟大愚、ほか野球部員』と書き記す。ちなみに『制作・監督』は彼女自身で、真澄の名前はといえば『プロデューサー』の隣に書かれていた。
 ──いや、なんでだよ。

「いるか?プロデューサー」

「大事だよ。私のモチベーションが上がるからね」

 「頼んだよ、プロデューサー」と、気安い調子で肩を叩かれる。が、真澄には何が何やらさっぱりだ。ちっとも答えになっちゃいない。
 しかし追及することはしなかった。何となく、悪い気はしなかったので。

「あのぅ……今からプロモーションを打っても校内の人間には素行の悪さを知られていますし、他校に広まるのも時間の問題では……?」

「そっ、そうですよ。中学時代の同級生の目にも入るでしょうし……。ヘタしたらうちまで叩かれることになるかも……」

 和やかな空気に水を差したのは他の部員たちだ。まったく、有象無象はいつも邪魔ばかりをする。
 真澄が思わず舌を打つと、気弱そうななりの男子生徒が「ひぃっ」と身を縮めた。こんなことで怯えるくらいなら最初から口出ししなければいいものを。
 苛立つ真澄を前に、しかし名前は「うん、腕が鳴るね」と微笑んだ。

「轟くんは口下手で恥ずかしがり屋なんだ。革命の象徴となることに否定的で、ただ自分の信念を貫きたいと考えているだけ。だからわざと粗暴な振る舞いをしている……っていう筋書きはどうかな、プロデューサーくん」

「あぁ、俺もその方向でプロデュースしていこうと思っていたところだ」

「あとで生徒たちのSNSにそんな感じの内容を投稿させよう。『轟って意外といいヤツなんだな』みたいな。……みんな、頼めるかな?」

 名前は『みんな』と言ったところで、他の部員たちに流し目をくれた。意図してのことか、果たして無意識のことか。上目で上司にお願いされて、断れる者が何人いるだろう。そもそも映研は部長である名前に心酔する生徒たちの集まりであるようだったから、効果は絶大だった。
 「はいっ!」と運動部顔負けの声を出して、部員たちは三々五々。部室を飛び出していった後に残されたのは穏やかな静けさだった。

「時間を割かせてしまって悪かったね。キミは忙しい身だろうに」

「は?いや、俺から頼んでるんだからそれはこっちのセリフだろ。そもそもこんな真面目に取り合ってもらえると思ってなかったし」

「それはなんというか……そう、利害の一致というところかな」

「?」

 彼女の表情は言葉通りのものだった。つまるところ、真澄に遠慮して……というわけではないことは明らかだった。
 名前は続きを話そうとはしなかった。それが答えのすべてだと言わんばかりに口を閉ざした。けれど真澄が視線を逸らさずにいると、やがて苦笑し、肩を竦めてみせた。

「まぁその……こちらの勝手な都合なのだけどね。ドキュメンタリーってさ、色々と面倒なんだ。映画として構築していく上で、観客の反感を買う登場人物がどうしても出てきてしまう。それが実在の人物となると『許可を出した』『出してない』 の泥沼になったり、名誉毀損だの何だのと……」

 彼女なりに鬱憤が溜まっていたのか。当初の沈黙が嘘のように滑らかな口ぶりで語り続けた。かと思えばプツリと電池が切れたように口を噤み、「いや、つまらない話をしたね」と苦笑する。

「要するに私にとっても良い機会なんだ。それに轟くんのことは私も気になっていてね。彼って存在自体がフィクションみたいじゃない?いつか彼を主役に長編映画を作ってみたいなぁ、と」

「ふーん……」

 そうなのか、と真澄は相槌を打った。けれどその実彼女の主張に対して思うところなどひとつもなかったし、興味もなかった。ただ『轟くんのことは私も気になっていてね』というセリフだけは耳に残った。
 そうなのか。野球と関わりのない人間から見ても轟は特別なのか。『当然だ』と真澄の脳内で声が囁く。轟は天才なんだ。誰も彼もが轟(俺の天才)には敵わない。
 しかし同時に苛立ちもあった。傲慢で怠惰で──眼の前の女(無知な観客)の双眸にすら熱を宿すことのできる、轟に対して。苛立ちと憎しみすら抱えた真澄の表情は、よほど複雑なものだったのだろう。
 名前は慌てた様子で「もちろん作る時は絶対に許可取りをするよ」と両手を挙げる。尤も、それは必要のない弁明であったのだが。

「というわけで映研はしばらく轟くんのプロモーションに注力するつもりだから安心して。コンテもこちらで用意するから真澄くんは目を通すだけでいいようにしておくよ」

 「キミ、アルバイトもしているんでしょう?」轟のキャッチャーである真澄のことも調査済みらしい。今日はこれで終わりだとばかりに、彼女は出口を指し示した。
 言いなりになるのは癪だが、分は彼女の方にある。真澄はわざとらしく時計を見て、「まぁ、そうだな」と応じた。

「じゃあ、」

 背を向けかけて、真澄は言葉を切る。続く適切な語が思いつかない。『また明日』と言うのは気安すぎるし、『頼んだ』と言うのは借りを作るようで嫌だ。
 逡巡していると、名前が「うん」と目元を緩めるのが横目で窺い知れた。

「これからよろしくね」

 彼女は友人を相手にするみたいに「バイバイ」と手を振る。真澄は答えない。「ん、」と喉を鳴らすだけで、それで部室から出て行った。
 それは逃亡だった。女の視界から一刻も早く抜け出したかった。すべてを見透かすような、余裕のある強者の眼。それは轟に似ていて、まったく異なるものだった。少なくとも真澄にとってはそう感じられた。

「あれは中ボスくらいはあるだろ……」

 轟の好むゲームに喩えて、独りごちる。彼らが相対したら、轟の目に彼女はどう映るだろうか。そんなことを考えた。





 明け放たれた窓からは運動場が一望できる。放課後、張り上げられる声、舞う土ぼこり。今日は高い金属音は聞こえてこない。それが少し、名前には寂しく感じられた。

「残念だけどこれはボツだね」

 誰もいない部室の中。応える声はないけれど、彼女は気にしない。いま彼女の関心を引くのは野球部のみ。正確には一年生である轟大愚──そして、彼のキャッチャーである真澄賢悟。二人を題材にした映画のプロットを眺め、名前は溜め息をつく。
 本当はこのバッテリーを主役にした映画を撮りたかったのだけど……、まぁ、致し方ない。何しろ当の本人からプロパガンダ作品の制作を依頼されてしまったのだから。