別にこれが恋かどうかは分からない。
彼のことを考えると胸が締め付けられるとかそういことはまったくないし、初めて顔を合わせた瞬間に心臓が破裂したりとか彼の後ろに花が咲いて見えたりとか世界が薔薇色になったりとか、そんなのも皆無だ。

「みょうじさんそろそろ片付けてね」
「はぁい」

でも新しい絵が彼からインスピレーションをうけたものになるくらいには、わたしは彼のことが気になっている。それって恋が10だとするとどれくらいだろうか。
画材を片付けて美術室を後にすると、もう暗くなっているというのに体育館からは煌々と明かりがさしていた。キュ、とかバシンとかトンとかいろんな音と賑やかな掛け声が聞こえてくる。

「おっしゃあ!もう一本!!」

木兎の声だ。今日も元気がいいそれは赤みが強めの橙。わたしの中のイメージ。
最近のわたしがよく使う色はといえば、

「木兎さん、そろそろ片付けないと時間やばいですよ」

青。もっと言うならコバルトブルーとか、ウルトラマリンも捨てがたいな、明日少し今日の色より緑多くしてみようかな。
そんなふうに考えながらちょっとだけ、と自分に言い聞かせて体育館の入り口を覗くと、ほぼ同時にわたしの顔のすぐ横の壁へボールが飛んできた。ものすごい勢いで。

「っ!」

人間驚きすぎると声なんてなかなか出ないもので、思わず吸い込んだ息がひゅっと喉を鳴らす。

「っ大丈夫ですか?」
「あ、」

赤葦くん。
青色の声とともに駆け寄ってきた彼の名前を言う前に、「怪我は?」と聞かれて慌てて首を横に振った。ホッとしたように息を吐く赤葦くんの向こう側で、木兎が「あれっなまえじゃねぇか、どうしたー?!」とうるさい。

「今から帰りですか?」
「え、うん。部活帰り」
「…そうですか」

しばらく赤葦くんは何かを考えているようなちょっと難しい顔をしたけれど、彼が口を開きかけたところで「赤葦もう一本!!!」という木兎の声が飛んできたので、ぐるりと首を後ろ側へ回して「分かったから静かにしてください」と返事をする。
鞄の中でスマホが震えている。たぶん母が迎えに来たのだろう、最近は暗くなるのが早いからと仕事帰りに車で迎えにくるのだ。

「赤葦くん、わたし行かなきゃ」
「え?ああ、はい」
「部活頑張ってね」

木兎のお世話もね、と付け足すと赤葦くんはほんの少しだけ笑った。橙の声はまだ叫んでいる。踵を返すと「気をつけて」と青色の声がわたしの背中を優しく撫でた。







「いー天気…」

なんだか今日はひたすらに描きたい気分だなあと思って朝早くに登校したけれどもまだ足りない感じがして、昼休みまでも描きたくなるってなかなかないのになぜだろうか。美術室へ行こうかどうしようか、中庭のベンチに腰掛けて昼食を食べてから目を閉じる。もやもやとまぶたの裏で動く何かを見ながら、嗚呼そうか今日は空がいい感じの青なんだ、とひとりで納得していると、「なまえさん、」青色の声が降ってきたので聞き間違いかと思った。

「…寝てるんですか?」

聞き間違いじゃない。急いで目を開けると目の前に赤葦くんが立っていた。なぜここに。瞬いたわたしの心中を察したかのように「ジュースを買いに来たんですけど、なまえさんが見えたので」と自販機を指差す。青色がなんだかいつもより柔らかいなあと思いながら癖のある髪の毛を観察していると、赤葦くんは昨日みたいな、何かを考えているような難しい顔をした。

「なまえさんは、」

おそらく普段からあまり表情を顔に出しすぎないタイプの人だとは思うのだけれど、ちょっと深刻そうな感じで話し始めるのでわたしもかしこまって「はい」なんて返事をする。

「美術部、ですよね」
「え?うん、そうだけど」

これがそんな深刻な空気を出す話題だろうか。
頭に疑問符を浮かべるわたしをよそに、赤葦くんは相変わらずどこか深刻そうな顔でこちらを見つめている。

「昨日は、ひとりで帰ったんですか?」
「ううん、お母さんが車で迎えに来たからね。それで帰ったよ」
「…そうですか」

ふ、と息を吐いて二歩、赤葦くんがわたしに近寄ってきたので、必然的に彼を見上げる首の角度がきつくなる。昨日も思ったけれど、近くで見るとやはり背が高い。

「なまえさん、いつもあれくらい遅いんですか」
「ん、そうだねぇ、今の絵が仕上がるまではかな」
「…どんな絵を描いてるんですか?」
「えっ?」

まさかあなたをイメージした絵を描いています、なんて言えるわけもなく、怪訝な顔をする赤葦くんにわたしはどう答えたものかと首を捻った。だってこれが、恋が10だとするとどれくらいの気持ちに当たるのか、わたしはまだよく分かっていない。

「うーん、ちょっと内緒かな」
「言えないような絵なんですか」
「まぁ抽象画だけど、そんなえろいやつとかじゃないよ、残念ながら」
「残念ではないです、別に」
「そう?」

赤葦くんの表情は逆光でよく見えない。
わたしの隣には十分に座れるスペースがあるのだけれど、なぜ立ったままなんだろうか。それに、

「じゃあ完成したら、見せてください」

なんというか本当に、青色がやわらかくてひょっとすると時折ピンク色みたいにふんわり、いいにおいがする。「それから、」また一歩距離を縮めてきた彼の靴と、わたしの靴のつま先がコツンと軽くぶつかって、えらく近いその距離感に、どきり、心臓が音を立てた。

「今日は迎えはあるんですか」
「え?」
「ないなら帰り、送ります」

すうと手が伸びてくる。どこか触られるのかと思えばそれはわたしの顔の横を通り越して、ベンチの背もたれへ、つまり身を屈めた赤葦くんとわたしの顔の距離はものすごく、近い。

「それから、」

青色の声がゆるやかにわたしの輪郭を撫でる。
どくん。心臓がうるさい。今にも破裂しそう。
例えば恋って心臓が破裂したりとか相手の後ろに花が咲いて見えたりとか世界が薔薇色になったりとか、そういうものだと思っていた。けれども。

「あか、あ し、くん、」
「ちょっと黙って」

初めて敬語抜きにそう言った赤葦くんの声色はコバルトブルーでもウルトラマリンでもなくて、間違いなく柔らかなピンクを散らしたようなそれだった。コツン、少しだけ動かしたつま先がまたぶつかって音を立てる。
わずかな温もりだけを唇へ残してすうと離れていった赤葦くんの顔を見上げながら、心臓が破裂っていうよりも撃ち抜かれて体から出ていった感じがするし彼の後ろにはピンク色がキラキラと舞っているし、世界は空みたいにどこまでも澄んだ美しいブルーだった。












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