顔を上げたら眼前に広がるその風景が、海も空も太陽も雲でさえあんまり眩しかったので、嗚呼きっとこれは夢なんじゃあないかなと思った。夢なら良かったのにと思った。

「なまえ!」

そんな私の気持ちなんて御構い無しに、木兎は太陽とも張りあえるんじゃないかってくらいのあのでっかい笑顔でこっちを振り向く。

もう夏はとっくに過ぎたこの季節に突然海に行きたいなんて言い出した私を、木兎は「いーな!行こう!」の一言で連れ出してくれた。電車を乗り継いで駅の近くで自転車を借りて(ちなみにレンタル料はケチって一台だけだ)、ちょっとした山みたいなものをうんうん言いながら登って、それからあの有名な夏の歌になぞらえて二人乗りでゆっくり下って行くはずが、木兎の性格上そんな悠長なことはしていられないらしい、二人分の体重を乗せた自転車でブレーキもかけずに猛スピードで坂を下った。

「ぎゃーーー!!何これやばいちょう楽しいけどちょう恐い!!!死ぬ!!まじで死ぬ!!!」
「やっべーーーまじで楽しいなこれ!!!へいへいへーーーーい!!!」

爆笑しながら坂を下っていく私と木兎はまさに気違いと言うべきか、それでも恐いよりも先に面白いとか楽しいとかそんな感情が先に来てしまって、木兎の腰にしがみつきながらゲラゲラ笑った。こいつと一緒だと何だって楽しくなってしまうし馬鹿みたいなことでもものすごく笑えたりする。と思っている間にいつの間にか森を抜けて、突然に視界が開けた。ぶわっ、と吹き抜けた風に海の塩っ辛い匂いが混じっている。木兎はあいかわらず奇声をあげながらブレーキなんて知りませんみたいに坂道を爆走していくけれども、私が「危ないよ」とか言う前にもう砂浜に着いていた。
予想どおりと言うべきか、そこには誰もいなかったし海の家もただの小屋になっていた。

「着いたぞーー!海っ!俺、海なんか来んの久しぶりだ!」

私が乗っている事など気にもせずに自転車を投げ出した木兎は、一目散に防波堤へと駆けていく。流石は梟谷のエース、素早すぎるその動きに呆気にとられながら、私の方はといえば砂浜に足をとられながらよろよろとみっともなく後へ続いた。
もう秋の空色だけれども、見上げたそれはまだまだ眩しい。

「なまえ!やっぱいーな!海!」

けれどもそう言ってにかっと笑った木兎の方が、ずっとずっと眩しかった。
海はまだ随分と穏やかだけれど、時折防波堤に当たって跳ねる波が、潮の匂いを増長させているように思えた。
いつの間にか大人しくなって腰を下ろした木兎の隣へ近寄る。波はまだ容赦無く防波堤へ打ち付けてきていた。ぶらぶらと足を揺らす木兎の隣へ腰を下ろすと、なんだかいつになくちょっと深刻そうな顔をして俯いているので、どうやって声をかけていいのか分からなかった。「木兎、」「うん?」「なんか思ったより寒いねぇ」。そんなことを言って笑うと木兎もにかりと笑った。けれどもそれは試合の時に見るものとはまた別物で、ひどく柔らかくて可哀想なくらいに明るかったので、私は余計になんと言えばいいのかわからなくなった。

「なまえ、」
「うん」
「別にいいぜ、俺、だって、今までみたいに友達でいられるんなら十分だし、」
「…」
「友達でも、俺はお前とこうやって外で喋れるのは嬉しい!」

多分辛いんだろうなっていう話をする時もやたらと明るい木兎に、私はただ黙って重ねられた手に意識を集中させるくらいしかできなかった。握り返すこともなく、指を絡めることもなく、それでも黙ってじっと重ねられる手に応えない手を、愛おしそうにするりと撫でられる。木兎はそういう男だったけれど、まさか自分にそういう感情が向けられるなんて夢にも思わなかった。
だって木兎は梟谷のエースで、私の幼馴染で、だから、当然のようにずうっと幼稚園の時のままみたいな関係が続くのかと思っていた。なのに。

「ごめんなぁ、なまえ」

木兎はまだ笑っている。
ごめんなんて言ってほしくなかったのに。その気持ちに応える気の無い私が一番酷いのに。それでも「ごめん」の一言は私と木兎を切り離してしまうように思えて、いつまでも何も言えないままだった。
きっとこの後また私たちはうんうん言いながらあの坂道を登って、それからまたあの、ブレーキなんて知らないみたいなあいつの後ろへ乗せられて、そうしてまた恐いのにどうしようもなく楽しくって面白くってひょっとするといつまでも帰りたくないみたいな気持ちを必死にしまいこみながら、ゲラゲラ笑って坂を下っていくんだ、大切な幼馴染の腰にしがみつきながら。






泣かない人魚と太陽のはなし





161014



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