「あらいやだ」

目の前に突然現れた女の第一声がそれだったので、芥川は思わず顔を顰めた。
今日も散々太宰に甚振られてボロ雑巾のように放置された身体をなんとか引きずり歩いていると、薄暗い廊下の壁が不意に扉のように開いてひょっこり、えらく安穏な顔をした女が顔を覗かせたのだ。そして放った言葉が冒頭の其れである。

「キミ太宰くんのとこの、なんだっけ、何とか川くん」

足止めされてズルズルと座り込んだ芥川を、女は手を貸すでもなくのんびりと見下ろしている。

「あ、あれだ、赤川くん?」

敵意もなければ好意もない、しかし興味津々といった様子で、女は芥川が中々立ち上がれずに心の中で自分を叱責し七転八倒する様を眺めていた。

「芥川、です」

太宰を君付けということはおそらく自分には先輩にあたるのだろう、そう思った芥川は咳き込みながら訂正した。「あらそう」至極どうでも良さそうな返事だけが返ってくる。芥川の名前にはさして興味はないらしい。口の中の血の味が更に強くなったので、女から顔を背けて吐き出す、と、目の前に真っ白なハンカチを差し出されて、芥川は困惑した。

「拭きなよ。あと立てるんなら部屋においで。部屋の前が汚れるのは迷惑」

廊下はこの間清掃が入ったばかりなのに、などと零しながら女は開け放したままの扉の中へ消えていく。芥川は働かない頭で暫く悩んだあと、這いずるようにして女の後へ続いた。

「其処、座っていいよ。」

ズルズルと無様な格好で入ってきた芥川に、部屋の隅で棚を漁っていた女は振り返ることなく言った。
思っていたよりも随分と広い部屋には、ベッドと小さなテーブル、それからやたらと大きい本棚とベッドよりも柔らかそうなソファが置かれていた。奥に衝立も見えるので、どうやら風呂まで付いているらしい。かなりの好待遇を受けているようだが、このようなビルの薄暗い部屋に幹部や準幹部が居室を置くとは思えなかったので、一体何者かとガーゼや消毒液を手に側へやってきた女を見上げた。

「手のかかる子ね」
「…なっ、」

言って、未だに床に転がったままの芥川を、女はひょいと抱え上げてソファへ乱暴に投げた。衝撃に身体があちこち悲鳴をあげる。またも咳き込んだ芥川に構うことなく女は驚くほどの手際よさで服を脱がせると、古いものから新しいものまで其処ら中を傷に覆われた身体を見て「うわあ」と無感動に呟いた。

「さすが、サディストだねぇ太宰くんは」

そして黙々と新しい傷を消毒し古い包帯を取り替え、「化膿してるわ、ここ」と言って消毒液を染み込ませたガーゼでぐりぐりと傷口を抉るので、芥川はギリリと奥歯を噛み締めて声を上げまいと耐える。ちらりと見た女の目は何処か嬉しそうに輝いていたので、消耗しきって羅生門すら使えぬ自分をまた叱責した。

「はいお終い」

歌うように言って、女は芥川の服を元に戻す。そして棚からからふわふわのバスタオルを持ってきて、それを芥川に放った。

「寝るんならそれでも被んなさいな」

どうやらこのまま此処へ泊まれということらしい。
また身体を引きずってでも、廊下でもなんでもいい、此処を出るべきだろうと思ったが身体がうまく言う事を聞かない。すると苦戦している間に扉がノックされ、瞬間、女はパッとバスタオルを広げて頭から芥川に被せた。

「静かにしててね」

小さく耳元で囁かれて鼓膜がじんわりと揺れる。
背後で扉が開く音がして、「なまえ」おそらく女の名前であろうそれを呼んだ声に、芥川はサッと背筋が冷えるのを感じた。先程まで自分をあれほど甚振っていた声が、今やひどく甘ったるく彼女の名を呼んでいる。

「太宰くん」

部屋から廊下までしんと静かな所為で、太宰が立てたであろうリップノイズは妙に響いた。
扉に背を向ける形で設置されているソファのおかげでおそらく芥川の姿は見えないだろうが、さすがに収まりきらずに飛び出ている足には気付くであろうに、それでも太宰はしつこくなまえと口づけを交わしているようだった。時折彼女が漏らす声に耳を覆いたくなる。やはりこの部屋に入るべきではなかった、と芥川は思った。

「ところでなまえ、君はまた何か拾い物をしたのかな?」
「えぇ、そうねぇ」

チリ、と灼けるような、微かでも鋭い殺気に鳥肌がたった。勤務外で何故この様な殺気を向けられなければならぬのか、芥川は息を殺す。静かにね、と囁いたなまえの声がゆるりと自分に纏わりつくかのように頭で響いて、指の先から髪の毛の一本まで動かせないような感覚に陥った。

「だからまた今度来てね」
「其方とお楽しみという訳かな?」
「真逆。厭だわ太宰くん、ちょっと大きな猫みたいなものよ」

ちゅ、とまた唇の吸い付く音がして、それからなまえはさあさあと太宰を追い返した。扉が閉まる音がして、足音が近づいてくる。

「あら、随分静かだったから、眠ったのかと思った。貴方好い子なのね」

バスタオルを取り上げたなまえが呟く。裸電球の安っぽい眩しさに目を細めていると、「もう寝なさいな」とバスタオルを放り投げて、芥川の視線など気にもせずに服を脱ぎ始めるので、あまりにも自然なその動きに目が離せず、露わになった細く白い背中が衝立の向こうに消えていくまでをしっかりと見送ってしまった。シャワーの水音が聞こえる。
彼女の背中から尻にかけての美しい曲線をなるべく思い出さないようにしながら、芥川は痛む傷をそうっと抑えてゆっくり目を瞑った。

四日後、芥川がまたズルズルと身体を引きずり同じ廊下を通ると、気配を察してなのかまたなまえは扉を開けて中へと招き入れ、傷の手当をしバスタオルを投げつけソファへ寝かせた。その日もぱっと見では分からぬ筈の扉が外からノックされ、太宰とは別の男が訪ねてきたので、やはりなまえは芥川の耳元で「静かにね」と呟きやってきた男を追い返す。
よくよく室内を観察してみると靴の類が一切無く、なまえも裸足でひたひたと歩いているので、彼女は外へ出る習慣がないらしい。誰かの愛人か娼婦であろうか、と思ったけれどもそれではなぜ自分をわざわざ部屋へ招き入れて他の男を追い返すのかが分からなかった。

「好い子ね」

そう言いながら頭へ乗せられる手は誘惑、という言葉とは程遠く子供にするかのようなそれで、やはり芥川の視線すら気にせずに服を脱ぎ捨て風呂へ向かうなまえの背中は綺麗だとは思ったけれどそれだけだった。

それから芥川は時々なまえの部屋の前の廊下を通るようになったけれど、いつ行っても彼女は必ず扉を開けた。殆ど毎回、男が訪ねてきたけれども、稀に来ないこともあった。

「ねぇ。芥川くん、今度外に出た時、買ってきて欲しいものがあるの」

何時ものように芥川の隣へ腰を下ろし手際よく包帯を巻きながら、唐突になまえが言った。

「靴が欲しいの」

言われて視線を落とすと、剥き出しの白い足先は少し汚れていた。打ち付けのコンクリートの部屋で裸足は、きっと寒いだろう。
そう思い眺めていると、なまえは「寒くって」と言ってひょいと足を持ち上げ差し出す。芥川は困惑した。まるで初めて会った時に差し出された真っ白のハンカチを見ているような気分だった。
そろり、恐る恐る触れると、氷のように冷たいそれにぎょっとする。どうしたものか、悩んだ末に、両手で小さな足を包んでさすった。足を上げたせいで捲れ上がったワンピースの下から、光っているのではと思うくらいに白い太腿が覗いていたが、芥川はなるべくそれを見ないようにして、先ほどまで自身の傷の汚れを拭っていたタオルを引き寄せ、まだ汚れていないところを探し、丁寧に足を拭いた。なまえは何も言わずにじいっと芥川を見つめている。

「有難う、好い子ね」

言って、足を元に戻したなまえの目は、薄く氷が張ったように艶々と冷えてしかし底の知れぬ色で光っていた。

「私をここへ連れてきた人は、たぶん、私のことを忘れてしまったのだけれど」

随分と長い髪は綺麗に整えられているし、肌も白くどこまで美しい。それなのにいつでも長い睫毛に覆われた双眸は哀しげで、その憂いが彼女を美しく見せているのだろうか、と芥川はぼんやり考えた。

「いつか、キミがもっと偉くなったら、私をここから出してね」

曖昧に頷いた芥川をなまえは笑った。そして先程彼がやったのと同じくらいにそうっと、その額に唇を寄せる。
その日初めて、なまえは自分のベッドへ芥川を招き入れた。電気を消すと、ぽろぽろといつまでも涙をこぼし続けるので、芥川はいつまでもそれを拭い、柔らかく手を握って、また涙を拭った。

「おいていかないでね」

囁いたなまえの言葉を聞きながら、この人は誰においていかれてしまったんだろうかと、あまりにも可哀想で華奢な肩をできるだけそうっと抱きしめて眠った。





地下室のセイレーン




20161025




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