「馬鹿じゃないの」

思わず吐き出した台詞にこれはしまった、と思ったけれどももう遅い。先ほどから私の目の前に立ちはだかっている図体のでかい部活仲間を恐る恐る見上げると、いつも不機嫌そうに眉間にしわを寄せている表情はそのまま、私をじっと見下ろしている。殺される。影山が女子を殴っているところは見たことないけれども、あまりの負のオーラに気圧されて私はジリジリと後ずさった。

「………馬鹿かもしれない」

そうしたら返ってきたのがそんな言葉だったので、予想もしなかったそれにひっくり返りそうになる。
何だって?今、影山が、自分を馬鹿かもしれないって?言った、確かに言ったよね?
自問自答を繰り返しながら、もしやこれは新手の嫌がらせかそれとも何か企んでいるのか、すぐにでも応戦できるように手に抱えたドリンクボトルをそっと床へ置いて両手でファイティングポーズをとろうとすると、影山はおびえた様子の私を見てなぜかひどく傷ついた顔をして口をへの字に曲げた。さながら叱られた時の子供のようである。
一瞬、ほんの一瞬だけ可愛いなと思ってしまった自分を叱咤して、私はつい先ほど、影山に言われた言葉を頭の中でリピートした。

『お前、俺のことどう思ってんだコラ』

どこかの坊主頭の先輩を彷彿とさせる言い方だった。
土曜日の練習、何時も一番乗りでやってくる影山と日向に続いて早めに到着した私は、部室にドリンクボトルを取りにやってきたわけなのだけれど、扉を開けるとなぜか今日は影山しかいなかった。「日向は?」と聞けば「トイレ」とだけ素っ気ない返事が返ってきて、そうかと納得しながら隅に置いていたドリンクボトルを籠ごと持ち上げると、部室の扉の前に影山が立ちはだかっていて出られない。どういうつもりかと尋ねれば、影山はあーだかうーだかよく分からない唸り声をあげて目一杯の沈黙のあと、喧嘩腰に前述の台詞を投げつけてきたのである。

「どうって何?」
「そのまんまだ、どう思ってんのかって聞いてんだよ」
「ええとそれってバレーのプレイスタイルのこと?それとも練習方法?あっ、チームからの信頼とかそういう、」
「ちげぇよ!恋愛対象としてに決まってんだろうがボケェ!」
「はぁっ?!」

恋愛、という言葉がまさか影山の口から飛び出してくるとは思わず、私は仰天して素っ頓狂な声を上げた。影山が不服そうな顔をする。
影山と私はクラスも同じでしょっちゅう口喧嘩をするし、部活の時は日向や月島と一緒に影山をいじることが習慣のようになっている。喧嘩するほど仲がいい、とは言うけれどもいつも全力でキレて張り合ってくる影山は当然私のことは煩わしく感じているだろうと思っていたのに。
「馬鹿じゃないの」に返ってきたのが「馬鹿かもしれない」だったので、あまりにも張り合いのないその返事と、口をへの字にしてしょんぼりしている影山を目の当たりにしてしまった私はどうしていいかわからずに立ち尽くした。

「そ、それを聞いてどうするの?」
「聞きたいだけだよ悪ぃかよ」
「いや、うん、悪かないけど」

話せば話すほどに、視線をあちこちへうろうろさせている影山の顔がどんどん赤くなっていくのが見て取れた。私の方もそれが移ったみたいに顔に熱が集まるのが自分でも分かる。

「うまく、喋れねぇんだよ、こういうの」

影山はちょっと唇を尖らせながらもごもご、口元で話すので、わたしはできるだけ聞き逃さないようにと赤い影山の顔を見つめた。

「お、まえ、お前相手だと、うまく言えねぇ、けど、」

外で日向と先輩たちの声が聞こえる。影山にはちゃんと聞こえているだろうか。「かげや、」ま、は私よりもずっと背の高い影山の胸板あたりに吸い込まれていった。
ガシャン、影山の足が籠を蹴って、ドリンクボトルが跳ねる音がする。
頭と背中に添えられた手が、いつも見ているはずなのにこんなに大きかっただろうか、とぼんやりする頭の隅で考えながら、影山の手って熱いなと思った途端に、急に状況を理解して顔から火が出そうになった。いや、もしかすると出てたかもしれない。

「その、みょうじ、」

影山がまたもごもごと喋る。息が耳元にかかってくすぐったい。日向と先輩たちの賑やかな声が近づいてくる。

「俺、お前が、」
「おっはよー!!」
「うわぁっ!?」

扉が開くと同時に日向が元気よく飛び跳ねながら入ってきたので、私は西谷さん顔負けの瞬発力で影山を突き飛ばした。不意をつかれたらしい影山はよろけて日向に激突する。

「何だよ影山!危ねーじゃんか!!」

何だ何だと後ろから先輩方もやってくる。
私は何とか赤い顔を隠そうとうろうろした挙句、「何してんだァ?」という呆れ顔の田中さんに「ちょっと相撲をとってまして」なんて訳のわからない言い訳をすると、更に後ろに立っていた月島がブフッと吹き出した。影山は未だにひっくり返ったまま、呆然として私を見上げている。

「わ、わた、し、」

その視線から何とか逃れようと、足元のドリンクボトルの入った籠を引っ掴んだ。

「みっ、皆さん着替えますよね!わたし準備してきます!!」
「おいみょうじ!」

影山の伸ばした手をすり抜け押しつぶされている日向を飛び越えて、ニヤニヤ笑っている月島にわざと肘をぶつけてから部室を脱出して、転がり落ちるように階段を降りた。ちょうど登ってくるところだった三年生たちにぎょっとして名前を呼ばれたけれども、返事をする余裕もなく駆け抜ける。

「みょうじ!」

後ろから影山が追いかけてくるのが分かる。
恐ろしく速い。逃げられるわけがない。
あっという間に私は捕まってしまって、影山の腕の中に逆戻りした。ガシャン、今度は籠を取り落としてしまって、ドリンクボトルがそこら中に転がる。

「逃げんなよボケが、」

ゼェゼェと息が上がっている私に対して影山は呼吸一つ乱さずに言う。言葉は乱暴なくせにその声だとか私を抱きすくめる腕だとか、触れる全てのものが優しすぎて、誰だこれはと思った。私が知ってる影山は、こんなに柔らかな声を出す人だっただろうかと。
きっと今頃、部室では私を追いかけて飛び出した影山の話題で持ちきりだろう。今日の練習では私も影山も皆にいじられること間違いなしだ。それでもこの妙に優しい腕がどうしても振り払えないし、耳にかかる息も、熱い手も、どうしても離れられない。

「みょうじ、俺、お前が、」

影山の声が一層優しくて真剣なものになる。
やたらと熱い腕にそうっと手を添えて、情けないくらいに弾んだ息を整えながら、次に続く言葉を心の中で早くとねだった。






シュガーボーイは噛みつかない




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