いいですか乱歩さん、向こうは寒いですからきちんと温かくしていてくださいね。ラムネばっかり飲んでいちゃあ冷えますから、気を付けないと駄目ですよ。眼鏡は忘れていませんか?えぇ、ちゃんと持っていますね。あ、向こうは今丁度牡蠣や鮑の時期らしいです。鮑のお刺身なんて最高ですよ。

「あぁー!!もうっ!分かった、分かったから!!」

のべつまくなし口を動かすなまえに、乱歩は堪らず叫んだ。キョトンとするなまえ、しかし周りにいた探偵社の面々はもはや苦笑いを湛えて二人の様子を眺めている。彼女が乱歩の世話をあれやこれやと焼きたがるのは常日頃の事で、そしてそれを乱歩が邪険にして振り払うのも何時ものことだった。

「言っておくけど!今回の出張はなまえちゃんの十倍、否、百倍はしっかりしている敦君がお供だからね!君がキャンキャン喚かなくたって何の心配もいらないんだよ!!」
「キャンキャンとは何ですか!わたしは唯、敦君に迷惑を掛けないようにと思って!」
「大きなお世話だね!大体、誰もなまえちゃんにそんなこと頼んでないじゃないか!!どういう心算なのか知らないけれどねぇ…!!」

嘘である。乱歩は何故なまえが自分に構いたがるのかを知っている。知っているからこそ苛々するのだ。
乱歩が思うに、というか探偵社の社員であれば誰もが思うに、彼女は乱歩に想いを寄せているらしかった。実際に言葉に出したことは一度も無いのだけれど、彼女が自分を見る目だとか、いそいそと自分の為に駄菓子やラムネを買ってくる姿だとか、至る所に、そう、本当に至る所に自分への「好きです」が溢れすぎていて困る。その割に平気でそんな事ありませんなんてフリをするものだから、見ていて苛々するのだ。
なまえの気持ちが乱歩に暴露ていることを知らないなんてそんな筈はない。

「太宰さァん、乱歩さんが酷い!」
「嗚呼よしよしなまえ」

その癖他の男に抱きついたりだとか、そういう事を平気でやってのける。わざわざ自分の前でやる辺り嫉妬を誘っているのだろうかとも思えたけれども、彼女の性分から言って単なるスキンシップらしかった。
僕には一度もそんなのしたことない癖に。太宰も太宰だ、腰に手を回すな、どさくさに紛れて尻なんぞ触るなっ!
思いながらも口にすると負けのような気がして、乱歩は苛々しながら椅子の背凭れに思い切り体重を預けた。したり顔で笑う太宰が尚のこと憎らしい。

「もう、知りません。乱歩さんなんか」

べぇっと子供の様な仕草で舌を突き出したなまえはさっさと書類に取り掛かり始める。
僕が好きな癖に。
その一言を何とか喉の奥の奥まで押し込めながら、乱歩は出張先で何を食べてやろうかと思考を別のところへやった。



+++++



事件は驚くほどの速さで解決した。
というのも、苛々してなかなか気が乗らない様子だった乱歩をなんとかして宥め、ヨイショを繰り返し、気分を乗らせた敦の功労の賜物であった。つまりは出かける寸前になまえに押し付けられた覚書の賜物でもあった。
早々に現場を後にして、さぁ海鮮丼を食べに行こうなどと息巻く乱歩に引き摺られあっちへこっちへ美味しいもの巡りをした所までは良かった。

ぶえっくしょい。
電車の中で盛大な嚔をかます名探偵に、敦はおろおろしながらティッシュを渡す。あれ程なまえに身体を冷やさぬ様にと言われていた乱歩はそれでも頑として渡されたマフラーも手袋も身に付けず、びゅうびゅうと風の吹きすさぶ地で気持ちばかりの薄っぺらな外套しか羽織っていなかったものだから、帰る頃にはすっかり風邪をひいてしまっていた。「寒い、寒いぃぃ」とぶるぶる震える乱歩に六個目のカイロを差し出すと、引っ手繰るようにしてそれを抱える。
だから、なまえさんの言うことをちゃんと聞いておけば良かったのに。
電車に乗る前に社に連絡を入れた時、乱歩さんが風邪をひいてしまった様ですと谷崎に事付けたけれど、当然なまえにもそれは伝わっているだろう。
ぶえっくしょい。
きっと仕事も手に付かずに気を揉んでいる事だろうなあと思いながら、敦はまた乱歩にティッシュを差し出した。



+++++



それもこれも全部、なまえちゃんが悪い。
自宅で布団にくるまりながら、乱歩は思った。
大体、彼女があんな風にしつこく言い聞かせようとしなければ、僕だってきちんと分厚い外套を着て行ったし、マフラーも手袋もカイロだって身につけて行った。
出張の間も、今回はえらく敦の気が回るなぁと思ったけれどもやはり総てはなまえの仕業らしかった。お蔭でずっと彼女の事が脳裏にチラついて苛々するばかりで、海鮮丼も牡蠣も鮑もちっとも楽しめやしなかった。
チラリと布団の脇に放り出した袋を見遣る。苛々に任せてご当地限定味の棒状の駄菓子なんて買ってきてしまった。絶対に一人で食べてやる。乱歩は箱入りのそれを見つめながら心に決めた。
電車の中で敦に渡されたカイロはもう冷たい。

「寒い、」

一体なまえは何をしているのだ、何故見舞いに来ない。僕が好きな癖に。苛々しながらカイロを投げる。ぼすん、と間抜けな音を立てて屑篭に綺麗に入ったけれども、こんな時にちっとも嬉しくない。

「なんだ、思ったよりも元気そうですね」

もう寝てやる、と思った矢先に扉が開いてなまえがひょっこり顔を覗かせたので、乱歩は不意を突かれて布団の中で飛び上がった。
鍵が開いてましたよ、とのんびりした口調で言った彼女は、買い物袋を机の上に置いて側へやって来た。慌てて寝返りを打とうとするも節々が痛む身体は上手く動かずに、簡単に額に触れる手を許してしまう。

「ご飯は食べましたか?薬は?」
「……」
「乱歩さん?」
「来るのが遅いんだよっ!なまえちゃん、何時も僕の世話を焼きたがるんだから、こんな時にすぐ来ないでどうするんだ!」

言うと、なまえは少し目を見開いてから、困った様な顔になった。「すみません、すぐ来られなくて」当然彼女が張り込み任務で今朝方までずっと社外にいたのは分かっていたし、寝ていない身体を引きずってここまで来た事だって乱歩は知っていた。

「ほら、そんなに怒鳴ったら熱が上がりますよ」
「煩いっ!」
「乱歩さん、」
「僕が好きな癖に!」

宥める様に名前を呼ばれて、苛々してとうとう今まで一度も言わずに飲み込んできた言葉が口をついて出てしまった。はっとして口を噤んだけれどももう時は既に遅く、慌てて見上げたなまえの顔は耳まで真っ赤になっていた。

「…………え」
「なまえちゃん、」
「…………え。え、」

え、という一文字を何度か繰り返した後に、俯いて顔を隠されてしまった。熱でぼうっとした頭がうまく回転せずに、乱歩は愕然とその様子を眺める。僕とした事が。しばらく何も言えずに双方固まっていると、漸く「え」の呪縛から解き放たれたらしいなまえが両手の指先をグニュグニュ動かしながら、控えめに口を開いた。

「……ですよね、乱歩さんが、分からないはずないですもんね」

名探偵なんだから。
そう言ったなまえの声は震えていた。
嗚呼もう、こんな筈じゃあなかったんだ。もっと他に言ってやりたい事が山ほどあるっていうのに。

「すみません。わたし…。わたし、迷惑ですよね」
「君は莫迦か?」

また乱歩の口をついて出た言葉になまえがぎょっとして目を見開く。

「否、君は莫迦だ!」

いつもいつも君が僕の世話を焼くから、他の社員じゃあもうイマイチ気が効かないし、今回だって僕に暴露ない様にと敦君に覚書を渡したんだろうけれどあれじゃあ誰の仕業かすぐ分かる。出立前に君が牡蠣だの鮑だの煩いから、ついつい食べる時に君の事を思い出すし、君がいつも書類をやりながらボリボリ齧っている駄菓子を買ってきてしまった!その癖君は敦君にカイロを渡した折にどうして外套は持たせなかったんだ、お陰で僕はこの通り風邪をひいた!

そう捲し立てるとなまえはぱちぱちと瞬きを数回繰り返してから、「ええと、つまり…?」と首を傾げるので、乱歩はもう一度莫迦め!と叫んだ。

「詰まりは僕の側に居るのは君以外じゃあ駄目って事だ!」

なまえがまた「え」を繰り返す。
熱がある筈の乱歩よりもその顔は真っ赤で、ぎゅうと口を引き結び今にも泣きそうだった。何故泣く。枕元に置いてあったティッシュを取って、ぐりぐりとなまえの目元へ押し付ける。

「い、いたいです、乱歩さん」

かと思えば急にふにゃりと油断しきった顔をするものだから、乱歩はその頬を両手でむぎゅっと挟んだ。「え、」何か言う前に唇を押し付ける。なまえが声にならない悲鳴を上げた。

「………………!!」
「なまえちゃんが大声出させるから、お腹が空いた」
「………………え。」
「えって言うの禁止!」

今にもひっくり返りそうななまえの顔を掴んだまま言うと、うろうろと視線を泳がせてから「じゃあ、」と見上げてくる。

「好きです、乱歩さん」

今度は乱歩の方が「え」を言う番だった。




淑女と暴君



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