桜が満開の季節だというのに九州を襲った寒波で辺りはまだ雪が残っていた。寒い日は熱燗に限りますなぁとおっさんの様なことを思いながらお猪口をちびちび舐める。
親譲りの酒の強さと放浪癖、三年も恋人のできなかった所為ですっかり一人酒が板についてしまったわたしは、今日も今日とて夜の繁華街を練り歩いていた。花見と雪見が同時にできるなんて乙だわ、と屋台のおでんから始まり、あとは気の向くまま時折人の良さそうなおじさん達に連れられるままあっちへこっちへ移動して、気がつけばもう午前2時である。
そろそろラーメンで締めようかしら。なんて思いながら勘定をして店を出ると、やたらと目立つシルバーブロンドがゆらりと目の前を通り過ぎる。キラキラ光るそれはさながらお星様のようで、さすがカリスマとでも言うべきか、鼻を掠めたやたらめったらいい匂いにわたしはしばしうっとりしてしまった。
「ヴィクトル?」
名前を呼ぶとキョロキョロ辺りを見回してから、ようやく後ろに立っていたわたしを見つけて近づいてくる。無駄に長い足がちょっと頼りない動きをしているので、どうやら彼も飲みに来ているらしい。
「やぁ、なまえ、何してるの」
幼馴染である勇利が久々に帰ってきて、嬉しくてここのところ毎日勝生家に出入りしていたのだけれど、コーチをやると言って突然現れたヴィクトルと、それを追ってやってきたユリオは平和な長谷津には寒波以上の嵐のようだった。
ご機嫌な様子のヴィクトルは、わたしの前までやってきてにへらと笑った。聞けば一人で長浜ラーメンを食べに来たそうなのだが、ずらりと並ぶ屋台にテンションが上がってしまって、端から端まで制覇しようとしているらしい。それはさすがに効率が悪すぎる。
「なまえの好きな店はあるかい?俺そこに行きたい」
「うーん、じゃあちょっと歩くけどいい?」
「もちろん」
連れ立って歩き出すと、ヴィクトルからようやくすこぅしお酒の匂いがした。さっきの店で隣の席に座っていた、酔っ払って酷いからみ酒だったサラリーマンとはえらい違いで、それさえも上品な香りのように感じる。
寒さに背中を丸めて歩くわたしとは真逆で、ヴィクトルはピンっと空から吊り下げられたかのように姿勢がいい。スポーツをしている人は皆大抵背筋が伸びていて格好良く歩くけれども、ヴィクトルはなんだか別格のように思えて仕方がなかった。
「ロシアって此処よりもずうっと寒いでしょう」
「場所によるけど、まぁそうだね。なまえ、ロシアには来たことがあるかい?」
「サンクトペテルブルクになら」
他にはどこへ?どんな人に会った?どの国が好き?好きな食べ物は?
いつも以上に饒舌なヴィクトルの質問攻めに答えながら、時折質問を返しながら、屋台の暖簾をくぐる。「あれっ男連れ?」とにやつく大将に「ええ男っちゃろォ」と笑う。ヴィクトルは片言で「コンバンワ〜」と微笑んだ。それだけで店にいた何人かのお客の心臓が撃ち抜かれた。兵器のような人だなぁと思いながら、適当に注文する。勝生家で見た限りではヴィクトルはほぼ好き嫌いがないらしかったので、気を使わなくて楽だった。
「フクースナ!うまいねぇこれ!」
「それは良かった。あとはこっちもオススメなんだけどねぇ…」
「なまえはどれが好きなんだい?」
「わたし?わたしはまぁ、これかこれかなぁ」
「じゃあ両方食べよう」
難なく日本酒をさらさら飲み干しながら、ヴィクトルは出された料理をどんどん食べていく。さすがロシア人、アルコールにはめっぽう強いらしい。そうなるとわたしの方も呑み助の血が騒ぐわけで、すっかり腰を据えて飲む体制になってしまった。
「なまえちゃん、本当に英語喋れたんやね。ほんでそれ新しい彼氏?」
「ちょっと大将、前にわたしがお客さんの通訳してあげたん、忘れたとね?この人は幼馴染の先生やけん、残念ながら恋人じゃなかよぉ」
わたしと大将のやり取りに、ヴィクトルが首を傾げながら「なになに?」と聞いてくる。
「ヴィクトルがわたしの恋人じゃないかって」「それは光栄だね。なまえは何て答えたの?」「幼馴染のコーチだよって」「なんだ、残念」モテる男はお世辞もうまいらしい。
「…にしてもヴィクトル、ちょっと飲みすぎじゃない?大丈夫?」
「平気平気」
「日本酒は足にくるからほんと気をつけてね、わたしさすがにヴィクトル担いで帰るのは無理」
わたしとヴィクトルの会話の内容なんて露知らず、大将が「ええ呑みっぷりやねぇ」と笑いながら下の棚をゴソゴソやっている。これは不味い。
「ちょっと大将、まさか…」
「ほれっ!俺のとっておき!」
「あぁもうやっぱり!それ飲ましたら絶対帰れんけん、やめてーーー!」
慌てて止めるもわたしの願いは聞き届けられず、嬉しそうに目を輝かせたヴィクトルによって大将の手から恐ろしく美味い酒が掻っ攫われた。
嗚呼もうほら、やっぱりこうなった。
何度も自分の方へしなだれかかり抱きついてくるヴィクトルを押しのけながら、何とかタクシーを降りる。ズルズルと引きずるように、長身の身体に半分は引きずられるようにして、ひっくり返らないように玄関を目指す。扉へ手を掛けたところでバランスを崩してもろとも転んでしまった。頭を思い切りぶつけて目の前がチカチカする。
「ちょっと、ヴィクトル、ほんとちゃんと歩いて…!!」
顔面から雪に突っ込んだヴィクトルはそれでも小さく唸っただけで起き上がる様子がない。どうしてその状態で眠っていられるのか。
扉を開けてから腕を引っ張って起こすと、ぐぐっと体重がかかってきて踏ん張り切れなかった。たたらを踏んでまたひっくり返る。今度は地面ではなく上り口のところへヴィクトルと一緒になって倒れこんだ。
「あぁぁぁ!もう!!」
「ううん、なまえ〜、まだ飲むの?」
身体をあちこち打ち付けているはずなのに、むにゃむにゃと幸せそうなヴィクトルの顔を見ると力が抜ける。英語だったそれが段々ロシア語交じりになってきた。生憎わたしはロシア語に関しては簡単な挨拶くらいしか分からない。
「ヴィクトル、ほら、起きて。お願いだから階段くらいは自分で上がってよ」
さらりと細い髪を揺らしながら、ヴィクトルがゆるゆると顔を上げる。ブルーの目がキラリと光った。シルバーブロンドの髪よりもさらに星みたいに輝くそれにうっかり見惚れてしまったわたしは、なんだか罰が悪くなって顔を伏せた。
「ヴィクトルったら」
とろんと瞼の下がるヴィクトルの肩を慌てて揺すると、むにゃむにゃとロシア語の寝言みたいなものを吐き出しながら抱きつかれる。フィギュアスケート界きってのモテ男にそんな事をされると、やはり流石のわたしもどきりとせざるを得なかった。
酒に酔った所為か、いつも以上にだだ漏れな色気に目眩がする。
思わず右手で眉間を抑えると、不意にヴィクトルの手がにゅっと伸びてきて、わたしのそれを掴んだ。
「なまえ…………」
後に続いた言葉はロシア語で、ちっとも意味なんて分からない。「風邪ひいちゃうから、立ってよ」言うと、ようやく立ち上がった酔っ払いは、ぶらぶらと言う事を聞かない四肢を持て余しながら歩き出した。時折壁にぶつかるので、何か壊しやしないかとハラハラする。階段の目の前まで行ってから、ヴィクトルが不意にこちらを振り返って、「なまえ」と意識があるのかないのか曖昧な顔をしてわたしを呼ぶ。
「なぁに?」
目的地に着いた事によって幾分か無防備になったわたしの頭はふわふわしていて、手招きする彼に従ってよろよろと側へ寄って行った。すると途端に腕を引かれてぼすん、と甘く柔らかな匂いのする肩に額が触れる。
「なまえ、」
その先の言葉はやはりロシア語で、どうやらさっきと同じ台詞を繰り返しているらしい、ということだけは分かった。しばらくの間、酒の匂いに負けない甘ったるい色気を堪能してから、うんうん呻きながら階段を上って、なんとかヴィクトルの部屋に辿り着く。ユリオが起きやしないかとヒヤヒヤしながら布団を敷くと、寝かしつけたヴィクトルはいつまでもわたしの腕を離してはくれなかった。外はいよいよ夜明けを迎えて明るくなり始めている。
ヴィクトルを布団まで送り届ける、という任務を終えたわたしは、達成感も相まって気が抜けてしまった。そのままうつらうつら船を漕いでいるうちに意識が薄くなっていく。
「なまえ、一緒に寝ようよ」悪魔のように甘く囁くヴィクトルに抵抗する気も起きず、ズルズルと床に伸びる。ぐいと腰の辺りを引っ張られた気がしたけれども、眠気には勝てずにそのまま意識を手放した。
べろりとマッカチンに顔を舐められ目を覚ますと、わたしはヴィクトルにぎゅうと抱きしめられた格好で眠っていた。ぎょっとして飛び起きそうになったけれどもすんでのところで堪えて、小さく息を飲むだけに留まる。
そうっと見上げると、ヴィクトルはまだ熟睡していた。腕枕と腰に回されている手はさながら恋人同士のような状態なので、起こさないように気をつけながら布団から這い出る。スマホの画面で時間を確認すると、朝の7時だった。つまりまだ2時間も眠っていないということだ。ユリオや勝生家に見つからないうちに退散しなければ、とそそくさ廊下に出る。
「お、お前っ………!!」
そうしたら運悪く廊下で鉢合わせたのはユリオで、急いで何か叫ぼうとしている口を塞いだ。
「違う違う違うんだってユリオ、そうじゃない。そうじゃないから」
「まだ何も言ってねぇだろ。っつうかヴィクトル…趣味悪ぃな…」
「だから違うんだって!何もなかったから!ほんとに!送り届けてそのまま寝ちゃっただけだから!」
明らかに疑いの眼差しで見つめてくるユリオだったけれども「まぁ流石のヴィクトルもそこまで手ぇ早くねぇか」と呟く。わたしよりもずっと年下のくせに、妙に大人っぽいそれは国の違いなんだろうか。
「あ、そうだユリオ」
「だからユリオじゃねぇ」
「ちょっとロシア語でさ、教えて欲しいんだけど」
眉間に皺を寄せるユリオに構わず、ヴィクトルが何度も呟いていた言葉を出鱈目に発音すると、ユリオはしばらくわたしを見つめてから、もしかしてとヴィクトルが言ったのと同じ言葉を口にした。「そうそう、それ」ユリオの顔が赤くなる。「…なに?」途端に子供っぽくなった表情に首を傾げながら尋ねた。
「ほんとに昨日なにもなかったのか?」
「うん。ていうか何、どういう意味?」
「…それはテメェ、俺じゃなくてヴィクトルに直接聞け」
「はぁ?」
いいから。何故か恥ずかしそうにするユリオにグイグイと背中を押され、ヴィクトルが眠っている部屋に逆戻りさせられた。マッカチンが小さく吠える。振り返る前にピシャリと戸を閉められたので、仕方なくそろりと枕元へにじり寄った。
部屋にはヴィクトルの寝息だけが響いている。寝返りを打った髪が銀色にチラチラ輝く。彼はあの時わたしに何と言ったのだろうか。ブルーのお星様はまだ瞼の奥にぴっちりと仕舞い込まれたまま静かに眠っていた。
メイド・イン・スター
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