幼馴染の蛍ちゃんは、いつの間にか妙にモテるイケメン、のようなものに成長してしまっていた。
小さい頃はわたしのことをなまえと呼んでいたのに、小学校三年になった頃にはみょうじと呼ばれ、高校に上がるとみょうじさんとえらく他人行儀な呼び方をされるようになった。わたしもわたしで周りの好奇の目に晒されることに何となく居心地の悪さを感じていたから、今や他のクラスメイトと同じに月島君と呼んでいる。

「あの、みょうじさんが月島君と幼馴染だって聞いて…」

一体どこからその情報が漏れたんだろうか。目の前でもじもじしている見知らぬ女子生徒を見て思う。山口あたりだろうか。

「その、月島君て、彼女とかいるのかなって…」

中学一年の時にしょっちゅう聞かれたこの質問をされるのは久しぶりだ。もっともその時は「月島君と付き合ってるの?」だったけれど。

「ごめん、たまたまずっと学校一緒なだけだし、あんまり知らないんだけど…」
「そ、そっか。なんかごめんね!もし知ってたらって思ったんだけど」

恥ずかしそうに去っていく姿を見ながら、そこでようやくあの子は男子が可愛いと騒いでいた橋田さんではないだろうか、と思い出す。控えめでふわふわした、女の子らしい子だ。月島君はあなたが思ってるようなクールなイケメンじゃなくて、ただの捻くれ者の嫌味な男ですよと教えてあげてもよかったなあと思う。

「あんまり知らないとかよく言うよ」
「げっ聞いてたの」

ひょっこり後ろから現れた山口に「盗み聞きなんて悪趣味だなぁ」と言うと「わざとじゃないよ!」と慌てたように返ってくる。幼馴染を介して知り合った山口とは、小学校の時から付かず離れずのほどよい距離感を保っていた。蛍ちゃんの数少ない友達の一人だ。

「高校に入ってまであいつの幼馴染扱いされるとは」
「いや実際幼馴染でしょ?」
「うるさい山口」
「はいはい」

歩き出したわたしに着いてきながらーーとは言っても同じクラスなので仕方がないーー、山口は何か言いたげな顔でこちらをちらちら見てくる。
「なに」「いや別に」「別にって顔じゃないじゃん」「ははは…」付き合いが長いっていうのは本当に厄介なもので、大抵こういう時に相手がなにを考えているのかわかってしまう。山口は特に分かりやすい。

「次の試合だけど…」
「行かないよ」
「い、一回くらい観に来れば?」
「月島君が多分嫌がる」

言うと、山口はなんだか微妙な顔をした。
たぶんわたしが行かないと即答した事とか、蛍ちゃんのことを月島君と呼んだ事とか、いろいろ原因はあるのだろうけれど、特に罪もないのに咎めるようなその視線はどうにも居心地が悪くて、ただ気づかないふりをして教室の隅の自分の席へと急いで向かう。
窓際に座っている蛍ちゃんがチラリとこちらを見た気がしたけれど、なにも言わずに席へ向かった山口を睨みつけながら、次の古典のノートを引っ張り出して、予習の確認をしているふりをした。

『あんまり知らないとかよく言うよ』

山口の台詞が頭の中で響く。
蛍ちゃんの表情の意味なんてすぐに分かる。それくらいに長い付き合いなんだから。けれどもわたしは、どうしても、その真意に触れる勇気があと1ミリくらい足りないらしい。



+++++



家に帰ると誰もいなかった。
両親とも共働きなので特に不自然には思わなかったけれども、今日に限って食卓の上に置かれたメモを見つけてしまった。いつもならラップに包まれた夕食が置いてある場所だ。

『晩御飯は月島家でご馳走になってください』

小学生の頃にはよくあった言付けも、高校生となった今ではなぜ今更、と思う。家から歩いて5分ほどの、月島家に行くのは久しぶりのことだった。
昔はしょっちゅうお互いの家を行き来していたというのに。

「なまえちゃん、久しぶりねぇ」

わたしを出迎えてくれたおばさんが嬉しそうに笑って、「蛍はまだ帰ってきてないのよ」と言いながらご飯を茶碗に盛ってくれる。バレー部は遅くまで練習があるのだろう、すらりと長い手を伸ばしてネット際でブロックを構える姿を思い出しながら、できれば蛍ちゃんが帰ってくる前に済ませてしまいたいなあと、がつがつご飯を掻きこんだ。

「ただいま………何でいるの」

しかしまあそう簡単にはいかないというか、あまりにもさらっと帰ってきた蛍ちゃんに、頬いっぱいに詰め込んでいたチキン南蛮を吹き出しそうになる。慌ててお茶を引っ掴んで飲み干すと、「落ち着いて食べなよ」と言った蛍ちゃんは早々に二階へ上がってしまった。
ゆっくりとコップを置く。何だかわたしばかり変に意識してる見たいで恥ずかしかった。

「ごめんねぇなまえちゃん、無愛想よねぇ」

おばさんが笑いながらお茶のお代わりを入れてくれた。結局わたしが食べ終わるまで蛍ちゃんは二階から降りてこなくて、さあ帰ろうというところでようやく気だるそうに玄関までやって来た。「……送る」家までたった5分の道程なのに、と思ったけれども有無を言わせず靴を履き扉を開けた蛍ちゃんに何も言い返せず、ただ黙って暗い住宅街の道を並んで歩いた。

「なっ、なんか、バレー部、頑張ってるみたいだね」

目と鼻の先にあるはずのわたしの家までがひどく遠く感じて、思わず発した台詞に、それでも蛍ちゃんは「うん、まぁ」とどうでも良さそうな返事をする。

「なに、観にくるの?」

そうしてしばらく黙った後に聞かれたので、わたしは何と答えればいいのか分からず、おばさんが持たせてくれたゼリーの袋をもじもじといじくり回した。

「わ、分かんない」
「…日向とか谷地さんとかと仲良いじゃん」

誘われてないの?
蛍ちゃんは相変わらず前だけを見ている。視線がチラリとわたしの方へ向いたのを見てから、何でこの幼馴染は、頭が良い癖に、こうも鈍感なんだと思った。
だって、日向や谷っちゃんと仲が良いのはバレー部の情報を貰う為だし、インハイ予選だって仮病を駆使して学校をサボって試合の応援に行ったし、その時のニュースで流れた映像だって録画して保存している。春高も、もちろん、全試合観に行けるようにお母さんに頼み込んでいた。明兄ちゃんと一緒になって、スポーツグラスも色々探したし、明日の白鳥沢との試合に全国行きがかかっていることも、知ってる。
それなのに、平気な顔して、観に来るの?とか、こいつは。

「蛍ちゃん、」

ぐ、と蛍ちゃんの胸ぐらを掴んで引き寄せる。20センチ以上の身長差を何とか縮めようと、思いっきり背伸びをして、顔を上へ向けた。近づく幼馴染の顔に、ぎゅうと目を瞑る。

「…………、」

しかし、いつまでたっても、わたしが思っていたような感覚は訪れず、おそるおそる目を開くと、目と鼻の先で驚いたようにほんのすこぅし目を見開いた蛍ちゃんのそれと視線が絡まる。

「あ、…………えっ、と、」

失敗した。まさか、こんな、不意打ちでキスしようとして失敗するなんて、そんな。
ただただ恥ずかしいばかりで慌てて顔を伏せて、なぜこんなに距離が近いんだと思ってからようやく、蛍ちゃんの胸ぐらを掴んでいた手をそろりと離す。
しかしそれは定位置へ戻る前に、がしりとずいぶん大きい手に掴まれ阻止された。あからさまに肩を揺らしてしまったわたしは、慌てて「け、け…、ちゃん」何か喋ろうとしたけれども何も思いつかなくて、黙って俯いた。
掴まれた手が熱い。

「何、今の」

怒っているのだろうか。顔を上げられないまま足元を見つめていると、蛍ちゃんの人指し指がすり、とわたしの手首を撫でる。掴む力は強いというのに、えらく熱っぽいその手つきにすっかり参ってしまって、背中からうなじの辺りまで、すうとなぞられたような気持ちになった。

「何なの」
「い、いや、あの、別に」
「別にじゃないデショ」

再びこちらへ顔を近づけた蛍ちゃんの眼鏡がキラリと光る。ジリジリと追い詰められてしまって、手首を掴んでない方の手が、わたしの顎を乱暴に掴んで上を向かせた。とうとう何も言えなくなってしまって、わたしはただただお月さまみたいに光る蛍ちゃんの瞳を見つめる。

「何しようとしてたかぐらい、すぐ分かる」

ふ、と吐き出された息もかかるくらいに顔が近い。背伸びも忘れて立ち尽くしているわたしに合わせるようにして長身の身体を折り曲げた蛍ちゃんは、もう一度わたしの手を引いて、影が重なるくらいに、自分に密着させた。

「なまえの癖に、生意気」
「な……に、が…、」

最後がいつだったかも思い出せないくらいに久々に呼ばれた名前に驚いている間もなく、ふにゅり、唇に柔らかい感触が残る。
思ったよりも冷たいそれが離れていくと、呆気にとられているわたしを見て、蛍ちゃんは満足そうに笑った。

「下手くそ」

手首を掴んでいた手がわたしの手のひらを絡め取る。
さっき唇に触れたそれよりもずいぶんあったかい手は、小さな子供の頃に触れた時よりもずうっと大きくなっていた。





君が笑うと世界がほどける




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