「太宰!!この唐変木が!毎度毎度貴様はどれだけ俺の予定を乱せば気が済むのだ!」

午後三時、武装探偵社。
正午を過ぎてから当たり前のような顔をして出社してきた上に報告書が一向に進まず、監視の目を盗んでうずまきへと逃亡した太宰を鬼の形相で捕まえてきた国木田の怒鳴り声が響いていた。他の社員達は勿論もう慣れっこで、最早日常風景となりつつある光景を横目にさっさと自分達の業務に勤しんでいる。

「大体貴様は一社会人としての自覚がだな…!!!」

額に青筋を立てて怒鳴り散らす国木田の隣で、太宰は悠々と椅子に腰掛けたまま、給湯室の方をちらりと見やった。恐らくそろそろ"彼女"がやってくる筈である。そう思ったと同時に扉が開いて、盆に湯呑みと茶菓子を乗せたなまえが出てきた。

「国木田さん、お茶でもどうですか?」

柔く微笑みながらなまえが卓上に湯呑みを置くと、それだけで殺気立っていた国木田の周りの空気が緩む。

「む、みょうじさん。ありがとうございます」

ぐいと眼鏡を押し上げて呟いたその横顔を、にやにやしながら太宰が眺めていると、普段は中々口にしない茶菓子を一口で口に詰め込んだ国木田は、「兎に角さっさと報告書を仕上げろ」と言ったきり、自分の作業に取り掛かった。
にやりと口角を上げたのは太宰だけではない筈だ。

みょうじなまえが事務員として探偵社へやってきたのはまだ先月の事で、その時の国木田の反応はといえば、あまりにも分かりやすかった。何せ彼が掲げる『理想の女性像』の数多くの項目に、これ程当てはまる女性が他にいなかったからである。
結婚を決める女性と出会うのはまだ先の予定であったけれども、しかし、目の前のなまえを見ると、やぶさかではないなどと国木田は思っていた。

「あ、これ来週の警備計画の資料の変更点です。他にも何かできることがあれば仰ってくださいね」

もっとも、なまえ自身がどう思っているのかは探偵社の誰にもまだ分からない。



+++++



「やあやあ国木田君、外回りご苦労様」

外回りから帰ってくると、太宰が嬉しそうにお椀に入った筑前煮らしきものを見せつけて、なんだ貴様振り分けられた仕事の半分も終わっていない輩が筑前煮など云々、と言いかけた国木田を遮り「誰の手作りだと思う?」と宣った。
にやにやと楽しげに笑うその顔から察するに、
「……みょうじさんか?」「当たり」途端に国木田は辺りを見回し自分に割り当てられたものがないか探す。その様子を横目に太宰はひょいと最後の蓮根を口へ放り込むと、むぐむぐ咀嚼しながら「給湯室の小鍋に君の分があるよ」と言う。なまえは休憩に出ているらしい。
目にも留まらぬ速さで手荷物を自身の机へ置いた国木田は、流れるように給湯室へ向かった。その疾きこと風の如しである。その間、脳内ではエプロンを着けたなまえが、「お帰りなさい」と微笑みお玉を片手に台所へ立つ姿が再生された。これは中々、悪くない。そう思いながら小鍋の蓋を開けると味がしみているであろう筑前煮がつやつやと彼を待っている。神妙な面持ちでそれを皿に移すと、恐る恐る口へ運んだ。

「―――――ッ!!!?」

瞬間、国木田の背中を今までに感じたことのない衝撃が走った。ビリビリと未知の味とも言えぬ刺激が舌の上を転がり喉の奥を熱を持ったヘドロがずるりずるりと這いずり回った。冷や汗が止まらなくなり、よろけた拍子に皿を取り落としてしまって、然しそれが割れるよりも早く視界がぐるりと一転する。

「くっ、国木田さんっ!?」

遠くで聞こえる声は敦のものか、はたまた天のお迎えでも来たか、「あ、敦、夕方からの予定を……」口を開きかけたが国木田は志半ばで意識を失った。



+++++



目を開けると眼前には見慣れた天井があった。首を横に回してカーテンを確認してから、漸く探偵社の医務室である事に気がつく。

「あ、国木田さん。目が覚めましたか?」

朗らかな声が聞こえてカーテンが揺れると、顔を覗かせたのはなまえだった。

「みょうじさん、」

起き上がろうとしてから自分が気を失う前のことを思い出し、国木田は思わず口を噤む。
あの、見た目だけはとてつもなく美味しそうな筑前煮の味を思い出したのだ。味というべきか最早劇薬も超える、未知のものだった。生ゴミと排泄物と土とを一緒くたに混ぜたところへ頭を突っ込んだような味だったのに、見た目が完璧な事が奇跡としか思えない。
「大丈夫ですか?」胃液がまたこみ上げてきそうだったので慌てて筑前煮の事は頭の外へ追い出しながら、国木田は心配そうに傍の椅子へ腰を下ろしたなまえを繁々と観察した。
見目麗しく清楚で聡明、しかしそれを鼻に掛ける事なく謙虚で努力家。彼女が淹れるお茶は何時も美味しかったので、てっきり料理の腕も申し分無いものだろうと思っていたのに、真逆あの様な才能の持ち主とは思いもよらなかった。

「心配しました、突然倒れたって太宰さんが仰ってたから」
「いや、もう大丈夫です」
「あ、あとすみません。筑前煮…」

おずおずと言うなまえに、国木田は皆まで言うなと遮ろうとしたが言葉が見付からず、また「いや…」と繰り返してしまった。
寝台の横の脇机には、自分の理想が書かれた手帳と一緒に眼鏡が置かれていた。彼女が外してくれたのだろうか。何と無く其処を見つめていると、視線の意味を取り違えたらしいなまえが、「予定を確認されますか?」と手帳へ手を伸ばした。矢張りよく気がつく女性である。
そう思うと無意識の内に、国木田は彼女の伸ばした手を掴んでいた。

「国木田さん…?」

なまえが怪訝な声を出す。
国木田は考えた。
料理が出来ないというのは致命的かとは思ったが、しかし、自分が出来るのだから教えれば済む話ではないか。一緒に台所へ立ち並んで料理をするのも中々、悪くない。そうだ。多少の得手不得手はお互いに補い合えば良いのだ。完璧でなくとも目の前の彼女はこんなにも魅力的だ。

「あのう、まだ気分が優れませんか?」

心配したらしいなまえがそうっと国木田の手に自分のそれを重ねた。それにまるで背中を押されたかのように、国木田はもう一方の手で彼女の手を取って引き寄せると、意を決して肺にありったけの酸素を取り込んだ。

「みょうじさん」
「はい?」
「貴女が好きだ」

瞬間、なまえはぎょっとして目を見開いた。そして国木田に掴まれた自身の手と、国木田の顔と、脇机の上の手帳とへ交互に視線をやりながら、みるみる内に顔を赤くして「わ、わた、わたし、あの、」としどろもどろになった。

「…誰か好い相手が?」
「あっ、いえ、そういう訳では…」
「俺は貴女の事をもっと知りたいと思っている」

一度口に出して仕舞えばあとは勢い付くもので、途端にぐいぐいと迫り来る国木田にやはりなまえは赤い顔のまま、おろおろと視線を其処彼処へ巡らせるだけだった。その間にも二人の物理的な距離は縮まっていき、遂になまえが息も絶え絶えに近いです、と言おうとした時、

「あっ」

ガチャリと扉が開く音がして、医務室の入り口からひょっこり顔を出したのは太宰だった。
国木田となまえを交互に見比べた探偵社の悪魔もとい太宰治は無表情のまま後ろを振り返り、深呼吸した。

「与謝野医師ーーーっ!!国木田君がッ!国木田君が医務室でなまえさんをッ!!!!」
「違うッ!!!待て太宰!!此れは――」

ヒラリと扉の向こうへ姿を消した太宰を、慌てて飛び起きて追おうとした国木田の腕を何かが引っ張った。
振り返るとまだ顔の赤いままのなまえが自分の袖口を掴んでいたので、事務所の方でやんやと聞こえる声にそわそわしながらも、居住まいを正して彼女と向き合う。
なまえは落ち着かない様子で左手で髪を耳へかけると、言葉を探すように口を開き、キュッと引き結び、そして控えめに「あのう、」と続けた。

「こ、今度また、国木田さんの分の筑前煮、作ってきますね」

予想外の言葉にまた胃液がこみ上げそうになるが何とか持ち堪える。
あの筑前煮を?また?
目を白黒させる国木田に気付いているのかいないのか、なまえは申し訳なさそうに笑った。

「今日作ってきたの、足りなかったみたいで。他の皆さんで食べてしまわれて、国木田さんの分が残らなかったので……代わりに太宰さんが作っておくって仰ってたんですが…」

瞬間、国木田の脳裏に蓮根を咀嚼する太宰の顔が浮かんだ。あの時確かに彼奴が食べていたのは筑前煮だった。つまりは、そういう事だ。

「太宰ッ!!!!貴様っーーーー!!」

今日も武装探偵社は賑やかかつ平和である。




彼女と恋の隙間



170323
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