練習終わり、さっとシャワーを浴びてから自宅とは違う方向へ走る。見慣れた街並みの中に、自分が海外で生活している間に建ったらしい、白とブラウンの、角砂糖をきちんと積み上げて固めてみたような可愛いマンションが見えてきた。そこでポケットの中のスマホが鳴ったので、勇利はようやく足を止めた。画面に表示された名前を見て思わず頬が緩む。

「もしもし?」
「あ。勇利、お疲れさま。あとどれくらいで着きそう?」
「もう家の前だよ」

えっうそ、早いねぇ。なまえの声のトーンが上がった。
「すぐ行くから待ってて」言いながらキーケースを取り出して、エントランスの鍵穴に差し込んだ。オートロックのこのマンションの合鍵を渡されてから随分経つというのに、未だにちゃんとドアが開くだろうかなどと無駄な心配をしてしまう。

「おかえり、お疲れさま!」

エレベーターを降りると、廊下の突き当たりの部屋、エメラルドグリーンのドアを半分くらい開けたなまえがひょっこり顔を覗かせていた。

「ただいま。…寒くないの?」

駆け寄ると薄いぶかぶかのニットにレギンスだけの格好だったので、飛びついて首に腕を巻きつけてきた身体を抱き上げて家の中に入る。きゃーっと楽しそうに小さく悲鳴を上げたなまえは、ドアがゆっくり閉まった後に不意打ちで勇利にキスをすると、「寒いから鍋にしたよ」と嬉しそうにコートとマフラーを剥ぎ取った。

二人で鍋をつつきながら話すのは、会わない間になまえの職場であった出来事だとか、ヴィクトルやユリオの話だとか、そんな事ばかりだった。なまえはいつも会わなかった時間を埋めるように、順を追って自分の過ごした時間を事細かに話したがる。自分から話を振るのが決して得意なわけではない勇利は、うんうんと頷きながら聞き役に徹底した。
粗方の話したいことをすべて話し終えてしまって、お腹がいっぱいになったところで「お風呂はいってくる」となまえが立ち上がった。ゆったりとした動きでそれを見送った勇利を振り返ると、「……一緒に入る?」にやりと笑って、勇利が大抵照れて断ってしまうのを知りながらそんな風に言う。

「だっ……大丈夫」

ふふふと笑い声をあげながらバスルームへ消えていく背中を見ながら、久々だし一緒に入った方が良かっただろうかと勇利は少しだけ後悔した。



+++++



いつの間にか座椅子の上で眠っていたらしい。
少し甘い柔らかな香りがふわりと鼻腔をくすぐったので瞼を持ち上げると、ちょうど毛布をかけてくれるところだったらしいなまえが「ごめん、起こしちゃったね」と小声で囁いた。

「………ん。片付け、ごめん、任せっきりで」
「いいよこれくらい」

笑ったなまえの手から毛布を受け取ると、勇利は控えめに目の前のテーブルを押しのけて、彼女を手招きした。なまえは少しだけ驚いた様子だったがすぐに膝を立てた脚の間へと腰を下ろす。後ろから毛布で包むように抱きしめると、風呂上がりの、少し湿気を含んだうなじからまた柔らかくて甘い匂いがした。

「ベッドで寝なくていいの?」

なまえが勇利の指を弄りながら聞く。

「…うん。後で」

もう少し、と呟きながら、うなじに唇をくっつける。この間シャンプーを買い換えた時に、なまえの勧めで同じ匂いのものに変えたというのに、自分の髪から漂うそれとなまえのうなじのあたりから香るそれはどうにも違う匂いのように思えてならなかった。どうしてこんなたおやかな、甘い匂いがするのだろうか。深呼吸するように深く息を吸うと、「くすぐったいよ」なまえからクスクス笑いが起こった。

「明日どこか出かけよっか。なまえが行きたいところ」
「いいの?練習は?」
「朝一から午前中の間はアイスキャッスルだけど…設備点検で午後から使えないから、ヴィクトルがたまにはなまえとデートしてこいって」
「あはは、ヴィクトルらしいね」

嬉しいなぁ、言いながらゆらゆらと身体を揺するなまえがどうにも可愛くて、勇利は後ろから抱く手にバレないようにそうっと力を込める。「どこがいい?」「どこがいいかなあ」外へ出かけるデートは本当に久しぶりのことだったので、いざ唐突に行き先を決めるとなると、中々二人とも候補が上がらない。まだゆらゆらしているなまえの、今度は耳の後ろへ唇を寄せると、またクスクスと笑い声が起こった。

「どうしたの、勇利」
「うん」
「うん?」
「………えーと、」

ゆらゆらが徐々に止まる。黙りこくった勇利に、先を促すようなことをなまえはしない。振り返らずに、ただ抱きしめられたままで待っているらしかった。

「いやあの、好きだなあって思って」

ピクリ、一瞬だけなまえの身体が震えた。
しかしやはり振り返らずに、少しだけ俯いたままでいる。
そうしてしばらくなまえが黙ったままなので、とうとう勇利はなんだか恥ずかしくなって、「なまえ?」その顔を覗き込もうとすると、ようやく脚の間でもぞもぞと振り返った彼女と目が合った。

「………海がいいなぁ」
「え?」

おそらく風呂上がりのせいだけではない、わずかに頬の赤らんだ顔が勇利を見上げる。

「好きなの、長谷津の、海」

噛みしめるように、なまえが言う。
なるほど、いつも自分の鼻先を掠めるたおやかな香りは、どうやらそこからきているらしい、と勇利は思った。海の匂いと、なまえのうなじから香るそれとは、似ても似つかないようで、しかしよく似ている。

「勇利とね、見る海、好きなの」

なまえのあたたかな手が伸びてきて、勇利の頬に触れる。

「ね、もう一回、さっきの、言って」

あんまり優しくて幸せそうな顔をするものだから、勇利の方もすっかりのぼせてしまって、くすぐったい気持ちになりながらその手に自分の手を重ねた。

「………えっと、好きだよ、なまえ」

えっとは余計だよ。クスクス笑ったなまえに鼻をこすりつけながら、勇利はそうっと柔らかな口付けを落とした。





君からはいつも
優しいにおいがする




170323
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